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2016.7.31 「神の下での安息と回復」 (全文) レビ記25:1-12

0. 《休む》ことを命じる主なる神

 今日から86日まで笠井元牧師は夏季休暇を過ごされます。牧師とそのご家族の霊と心と体の疲れが癒され、リフレッシュして戻られることを心よりお祈り致します。というのは、私はかつてこの《休む》ということに関して誤解をしていたからです。

 以前私は福岡国際キリスト教会で副牧師として仕えていました。在任中、金曜日が教会での勤務のない日になっていました。しかし、金曜日も教会のことが気になりました。実際、自宅で教会の仕事をしたり、教会から転送されてきた電話やメールに対応したりしました。そして、四六時中教会のことを考えている自分に却って安心しました。というのは、「主なる神に献身することに休みなどない」という思いから、休んでいることが献身しきっていないように感じられたからです。

 しかし、そうした中で旧約聖書の出エジプト記の通読を始めました。そこで自分の誤りに気付かされました。というのは、主なる神がイスラエルの民に与えた十戒の中に、次のような戒めがあったからです。

 

「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(20811)

 主なる神は、私達に決して休まないことではなく、逆に休むべき時にきちんと休むことを命じる方であられる。そのことを示された時、私は「自分は献身しきっていなかった」と深く反省させられました。

 

1. 安息を必要とする土地(24)

 今日私達はレビ記25章を読みました。新共同訳の見出しにあるように、この章は「安息の年とヨベルの年」に関する主なる神の律法の規定が記されています。主なる神は、エジプトで奴隷だったイスラエルの民を、モーセを通して救い出されました。レビ記は、救われたイスラエルの民がこれからどのように生きるべきかについて教えている書物です。

 25章ではまず「安息の年」のことが語られています。3節から4節に「六年の間は畑に種を蒔き、ぶどう畑の手入れをし、収穫することができるが、七年目には全き安息を土地に与えねばならない」とあります。主なる神は、イスラエルの民に、約束の地カナンにおいて6年間畑を耕したら、7年目は必ず土地を休ませることを命じられました。その年には土地だけでなく、人間も耕作を休むことになりました。

 この律法は先程触れました「安息日を心に留め、これを聖別せよ」という十戒の戒めに基づいています。それは私達が主なる神との正しい関係を回復するためのものでした。安息の年において土地を休ませることが命じられているのも、いわゆる生産性の向上だけが理由ではありません。2節と4節に「主のための安息」という言葉が繰り返し出てくるように、そこでは主なる神との関係が第一に考えられていました。

 また、安息日や安息の年を守らなければならないという戒めは、私達の隣人、特に弱い立場の人に対する配慮でもありました。十戒は申命記5章にも記されていますが、そこでは安息日を守らなければならない理由について次のような説明がなされています。

 「あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる」(14)

 

「あなた」以下に挙がっている人間、また動物は、皆その人より弱い立場にありました。彼らはその人が休まなければ休むことが出来ませんでした。更に、今日の箇所では、主なる神が土地もまた一定の安息を必要とする存在として造られたことが示されています。

 この点に関して、最近私はインターネットで一つの事実を知りました。それは、職場の飲み会や、休日を利用した社員旅行などの《レクリエーション》に対し、社員の方が「行きたくない」「こんなものは要らん」と匿名で不満を書き連ねていたり、「どうすれば行かないで済むか」と悩み相談をしている掲示板やウェブサイトが非常に沢山あるということです。そこで彼ら彼女らは「休みぐらい休ませろ!」と訴えていました。私自身は、以前働いていた職場はシフト制で、休みも勤務時間も人によってバラバラだったため、皆でどこかに行くということは幸か不幸か殆どありませんでした。しかし、彼ら彼女らの書き込みは、その人の置かれている立場が弱いと、それだけ休むのが困難になるということを示しているように思いました。

 

2. 土地の主であられる神(2)

 とはいえ、安息の年に関する規定を読んで、「1年も休んで大丈夫か」と思った人もおられると思います。それはこの律法を与えられた直接の対象であるイスラエルの民も同じでした。今日の聖書箇所の後の20節にはそのような彼らの心配が記されています。「七年目に種も蒔いてはならない、収穫もしてはならないとすれば、どうして食べていけるだろうか」。それに対し、主なる神は、6年目に祝福を与え、いつもより2年分多く収穫を与えるから、9年目に収穫する時まで飢えることはないと約束されました(2122)

 とはいえ、この律法を守ることは、イスラエルの民にとって主なる神の約束を信頼するかどうかを試す信仰のチャレンジに他なりませんでした。主なる神はどうしてそのような約束をすることが出来るのでしょうか。主なる神こそが土地の真の所有者であられ、彼らの必要を満たして下さる方であられるからです。

 2節で主なる神はイスラエルの民に「あなたたちがわたしの与える土地に入ったならば」と述べておられます。彼らが約束の地カナンに入ることが出来たのは、主なる神がカナンの地を彼らに委ねられたからでした。彼らは、そこに住み、耕し、収穫を食べ、楽しむことを許されました。また、カナンに入る前も、主なる神は、荒れ野を旅していたイスラエルの民に、安息日の前日にはマナと呼ばれる食物をいつもの2倍与えられました。そのことによって、彼らは安息日にはマナを集めなくても食べることが出来ました(出エジプト記162230)。主なる神は、イスラエルの民に、彼らが主なる神の恵みによって生かされていることを教えられました。

 

3. 安息の年と分かち合い(57)

 土地は主なる神のものであるという理解は、そこに生じる収穫に対する見方にも変化をもたらします。5節に「休閑中の畑に生じた穀物を収穫したり、手入れせずにおいたぶどう畑の実を集めてはならない」とあります。勿論、これは1年間何も食べてはいけないということではありません。6節で主なる神は「安息の年に畑に生じたものはあなたたちの食物となる」と言われています。農作業を休む安息の年にも、畑に自然に生じてきた穀物や実を食べることは許されていました。

 その一方で、主なる神は6節から7節で「あなたをはじめ、あなたの男女の奴隷、雇い人やあなたのもとに宿っている滞在者、更にはあなたの家畜や野生の動物のために、地の産物はすべて食物となる」とも言われています。この言葉は、土地の持ち主がそこに生じた穀物や実を独り占めするのを戒めるものでした。彼らには主なる神から与えられたものを分かち合う責任がありました。

 このようにして、主なる神は、安息の年に関する律法を通して、全てが主なる神の御手の内にあることを示すと共に、人間に主なる神のものを正しく管理し、用いることを求められました。そして、土地のある者もない者も、更には土地や動物も、主なる神の下で安息と回復を得るようにされました。主なる神のご支配には憐れみと愛が溢れています。

 

4. ヨベルの年における解放の宣言(812)

 更に、主なる神の下での安息と回復について、安息の年以上に劇的に教えているのが「ヨベルの年」についての律法です。8節にあるように、ヨベルの年は「安息の年を七回、すなわち七年を七度数え」た年に来ました。それは50年に一度訪れる特別な年でした。ヨベルの年は「その年の第七の月の十日の贖罪日」(9)に始まりました。「贖罪日」というのは、イスラエルの民が1年間に犯した罪を悔い改め、主なる神の赦しを受けることが出来る日です。この日、雄羊の角笛の音と共に「全住民に解放の宣言」(10)がなされました。「ヨベル」という言葉も元々は「雄羊の角」という意味です。

 では、ここで言われている「解放」とは、具体的にどのような内容でしょうか。10節を見ますと「あなたたちはおのおのその先祖伝来の所有地に帰り、家族のもとに帰る」とあります。

 イスラエルの民が約束の地カナンに入った時、部族ごと、家族ごとに土地が分け与えられました(民数記265256)。しかし、体が弱く十分に働くことが難しかったり、一家の稼ぎ手を失ったり、或いは世渡りが下手だったり、才覚に恵まれなかったために、その後貧しくなっていく人がいました。借金を抱え、土地や家を手放さなければならなくなった人がいました。それどころか、自分自身を奴隷として売らなければならなくなった人もいました。それに対し、50年に一度のヨベルの年には土地が本来の持ち主の手に戻って来ました。当時のイスラエルにおいて土地は収入を得るための基本的な手段でした。土地の返却によって貧しい人は再び生計を立てることが出来ました。

 また、ヨベルの年には誰かの奴隷になっていた人が家族のもとに帰ることが出来ました。その理由がレビ記25章の最後の55節に記されています。「イスラエルの人々はわたしの奴隷であり、彼らはわたしの奴隷であって、エジプトの国からわたしが導き出した者だからである。わたしはあなたたちの神、主である」。主なる神がイスラエルの民を救い出された時、彼らは人間の奴隷から主なる神の奴隷となりました。それは、主なる神の愛の中で生かされ、養われ、支えられ、守られて生きていく生活です。主の恵みに感謝し、信頼と希望をもって歩んでいく生活です。

 このように、ヨベルの年は貧しい人が再出発をすることの出来る機会となりました。主なる神は、ご自分のものである土地が人間によって酷使されることに対し、安息の年に関する律法によって歯止めをかけられました。同じように、ご自分のものであるイスラエルの民が奴隷として不当な扱いを受けることも良しとされませんでした。

 しかし、ここで忘れてはならないのは、ヨベルの年に宣言される解放は、人間が好き勝手に生きるためのものではないということです。逆に、主なる神を自分の主人として生きるところにこそ、真の解放があることを教えるものでした。先程ヨベルの年が「贖罪日」に始まるということを見ました。犯した罪が赦され、主なる神との関係が回復される日に、イスラエルの民は自分の同胞を社会的に回復させる命令を受けました。

 

5. “Jubilee 2000”――発展途上国が抱える借金の帳消しを求める運動

 ヨベルの年に関する律法は、約束の地カナンでこれから新しい生活を始めようとしていたイスラエルの民にあるべき社会の姿を示しました。それは、隣人に対する愛に基づく分かち合いによって、イスラエルの民が再び主なる神以外の何者かの奴隷に逆戻りし、不当な仕打ちを受けることを防ぐものでした。また、土地も富も究極的には主なる神のものであるという信仰に基づき、ごく一部の人が土地と富を独占し、深刻な貧困が生じるのを防ぐものでした。

 とはいえ、ここで命じられている借金の帳消しや土地の返却などは実際に行われたのでしょうか。残念ながら、イスラエルの民がこれらの律法を実施したという記述は旧約聖書の中のどこにもありません。

 この点に関して私は一つのことを思い出します。今から15年以上前、私は関西学院大学神学部で神田健次教授という実践神学の先生の授業を受講しました。神田先生は、教会が教派や国、更には宗教を超えて、平和や人権、環境などの課題に取り組む運動について研究し、かつご自身も関わっておられました。授業の中で神田先生がその一例として“Jubilee 2000”――“Jubilee”というのは、「ヨベル」の英語訳です――という運動について紹介されたことがありました。それは、アフリカやアジア、ラテンアメリカの貧しい国々が、経済的に豊かな国に対して抱えていた借金を、ヨベルの年に倣って、2000年に全て帳消しにすることを求める運動で、ローマ・カトリックや世界教会協議会(WCC)という超教派の組織が推進していました。

 しかし、“Jubilee 2000”の話を聞いた時、私はどこか引っかかるものがあり、神田先生に質問しました。「発展途上国の借金帳消しと言えば、聞こえは良いですが、お金を貸した側からすれば、これほど馬鹿な話はないのではありませんか」。それに対し、神田先生は「これらの国々は努力して貧しさから抜け出そうにも、抱えている借金が余りにも大き過ぎて、手も足も出ない状況にあるんだよ。そうなると貧しい国はいつまで経っても貧しいままということになってしまう」と答えられました。

 それでも当時の私には、“Jubilee 2000”という取り組みも、またその根拠になったヨベルの年に関する規定も、お金を借りたら返さなければならないという正義や倫理を軽んじているように思われました。

 

6. 主なる神の律法に従わなかったイスラエル

 しかし、それから15年が経ち、私の見方は大きく変わりました。勿論、借金をしても踏み倒してしまえばいいなどとは思いません。また、“Jubilee 2000”の主張に対しては今も色々と思うところがあります。しかし、ヨベルの年に関する律法が正義や倫理を軽んじているという当時の私の理解は誤ったものでした。逆に、この律法を行わなかったことによって、イスラエルの民は正義や倫理を軽んじました。

 イスラエルの民は、約束の地カナンに入ってから、どのような社会を築いたでしょうか。それから数百年後、アモスという預言者は、一部の人々が富を独占し、繁栄を享受する陰で、正義が曲げられ、貧しい弱い者が踏みつけられ、見捨てられ、重税や強制労働といった重荷を負わされていたイスラエルの現実を厳しく批判しました(アモス書267節、51012節、846)。酷使され、奪い取られたのは人間だけではありません。土地もまた同じでした。イスラエルは最終的に国が滅亡し、エルサレムの都は廃墟になりました。その様子を歴代誌下3621節は次のように記しています。

 「こうして主がエレミヤの口を通して告げられた言葉が実現し、この地はついに安息を取り戻した。その荒廃の全期間を通じて地は安息を得、七十年の年月が満ちた」。

 イスラエルが安息の年についての律法を守らなかったため、人間だけでなく、土地もまた酷使されました。そのため、イスラエルという国が滅びるまで、土地は主なる神の下で安息を得ることが出来ませんでした。

 

 安息の年やヨベルの年に関する律法を行おうとする時、自分よりも弱い立場にあるものに対する愛と配慮が求められます。そして、隣人を助けるために自分に与えられているものを用いること、手放すことが求められます。しかし、イスラエルの民にはそれが出来ませんでした。「他者がどうなろうが、自分の知ったことではない。自分だけは損をしたくない」と考えた彼らは、自分に与えられたものを独り占めし、自分のためにのみ用い、貯め込もうとしました。

 先程も言いましたように、イスラエルは、主なる神の恵みによってカナンの地に住むこと、その地を用いることを許されました。しかし、アパートに入居している住人が、無断でペットを飼ったり、騒音などの迷惑行為を止めなかったら、立ち退きを求められます。主なる神の御心に適う仕方で土地や富を用いなかった彼らもまた、最終的に国を失い、握っていた富や土地も失ってしまいました。

 

7. イエス・キリストによる「主の恵みの年」の宣言

 今日、礼拝への招きの言葉としてルカによる福音書418節から19節が読まれました。それは、イエス・キリストがナザレの会堂で朗読されたイザヤ書611節から2節の言葉です。

 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。

 「捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由に」する「主の恵みの年」とは、ヨベルの年のことです。そして、イエス・キリストは「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(21)と宣言されました。イエス・キリストがヨベルの年についての律法を完成されました。

 先程15年前の私が「借金をしたら返さなければならないのは当然のことではないか」と思ったという話をしました。しかし、私達は主なる神に対して《罪》という借金を抱えている者です。私達は主なる神から多くの恵みを受けていながら、主なる神に感謝するどころか、その御心に反することばかりしています。《罪》という借金は返済不可能なほど膨大であり、しかも日に日に膨れ上がっています。にもかかわらず、主なる神に対して負っている借金を返そうとすら思わない正義や倫理に反する者です。

 ヨベルの年は、贖罪日にイスラエルの民が主なる神によって罪を赦されることから始まりました。その上で、主なる神は、他の人の借金を帳消しにし、奴隷であった人を解放することをお命じになりました。

 イエス・キリストは十字架の上で、私達が主なる神に対して負っていた《罪》という借金を、私達の代わりに完全に支払って下さいました。そのことによって私達は、主なる神の奴隷、主なる神のものとされました。その上で、イエス・キリストは私達に「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」(マタイによる福音書612)と祈ることを教えて下さいました。また、王から1万タラントンの借金を帳消しにしてもらっていながら、自分に100デナリオンの借金をしている仲間を赦さない家来のようになってはいけないと教えられました(マタイによる福音書182135)

 イエス・キリストを主と信じる私達は、自分に与えられているものも、そして自分自身も、主なる神のものであることを知っています。主なる神こそが私達の命の源であられ、私達の必要を満たし、私達を養って下さる方であることを知っています。そして、私達はイエス・キリストによってこの世に遣わされていきます。私達が主なる神から与えられている恵みを隣人と分かち合う時、そこから主なる神の下での安息と回復が始まり、広がっていきます。イエス・キリストが宣言されたヨベルの年の到来を、今週も夫々の場で証ししていこうではありませんか。

(柏本隆宏)