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2016.7.10 「賜物を発見し、生かす」 (全文) マタイによる福音書25:14-30

 スチュワードシップ(=神に仕える僕の道)ということで、すでに、礼拝生活や献金について聖書から学びました。今朝は、神様からいただいている「賜物」を発見し、自分の仕事の選択や教会での奉仕、地域での活動のあり方でそれを生かすことについて考えてみたいと思います。

 最近は、カリスマシェフとかカリスマ主婦、カリスマ美容師など「カリスマ」という言葉を耳にするようになりました。NHKの朝の放送で「凄ご業Q」というのがありますが、「カリスマ」を「凄ご業」というような意味で用いているのでしょうか? 実は「カリスマ」とは「神様からの恵みの賜物」という意味です。また、「タレント」という言葉も良く用いられます。「芸能人」「才能」というようなことですが、これも今朝読みました、聖書の言葉、マタイ25:14以下の「タラントンの譬え」から由来したいます。今朝は、私たちひとりひとりに与えられている賜物を発見し、それを生かして用いることに焦点を当ててみ言葉に耳を傾けてみましょう。

 

 1.譬えの概要

 マタイ25:14~30には有名な「タラントンの譬」が記録されています。ある人が旅に出たのですが、自分の財産をある人に5タラント、ある人に2タラント、ある人に1タラントを預けて行ったというのです。タラントンとは、お金の単位というより、金銀の重さの単位で、1タラントンは、34キログラムです。「田中貴金属店」のホームページによると7月5日の銀は1グラム7365銭とありましたので、1キロが73650円、1タラントが250万円少しとなるでしょうか。

 5タラント渡された人と2タラント渡された人はそれで商売をして、それぞれ5タラント、2タラントをもうけました。1タラントを預かった人はそれを失わないようにと、地の中に隠しておいたというのです。当時は、鍵や金庫、セコムなどありませんでしたから、盗まれるのを恐れて、土の中にお金を埋めて、隠しておくということはそれほど可笑しなことではなかったようです。

 私は高校3年生の時にクリスチャンになりまして、早速高校の文化祭で聖書の展示会をしました。そこに倫理社会の先生がやってきました。当時の社会科・倫理社会の先生は共産党系か社会党系の人が多かったのです。実に嫌な顔をされて言われました。「私はキリスト教が嫌いだ。特に、あのタラントの譬は資本主義そのもので、持っているものは益々金もうけをして、貧しい者はそのわずかな持ち物まで奪われてしまうとは」。確かに言われてみればそのように解釈できないこともないでしょう、私たちは、今日、この譬話から資本主義の精神を良く学び、「負け組」にならず、「勝ち組」になりましょうというような教えを聞きとるべきなのでしょうか。決してそういうことではありません。では、この譬話からいくつかのことを聴きとってみましょう。

 

2.だれでも賜物をいただいている!

 第一に、すべての人にそれぞれ賜物が与えられているということです。1タラントンは与えられています。何も与えられていない人はいません。誰もが何か「取り柄」があるのです。嬉しいことです。ルカ福音書19章にも同じような話がありまして、そこでは10名の人がそれぞれ等しく1ミナづつ貰ったことになっています。ミナは金額としても大した額ではありません。すべてが平等に神様の恵みをいただいているということで、ルカの福音書の方がイエス様の元来の譬話に近いのかもしれません。しかし、マタイの福音書の譬話でも、三人にそれぞれタラントが与えられており、何も預かっていない人はいないという事実に注目したいと思います。エフェソ4:7には、「しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています」と言われています。ですから、教会では2つの言葉を言ってはなりません。「自分だけが賜物を独占している」、そして、その反対ですが、「自分には何の賜物もない」の2つです。一人一人に何らかの賜物が神様から与えられているのです。これが正しく、適切な言葉であり、現実です。

 

3.人と比較しないこと、用いることの大切さ

 第二に、「それぞれの力に応じて」(15節)、5タラント、2タラント、1タラントが与えられたということです。「力に応じて」ということです。能力に歴然として違いがあることは、資本主義の精神というより、私たちの現実なのです。そして、この事実は考えてみると、有り難い事ではないでしょうか。私たちは「できることをすれば良いのです」。ある神学者は、「私たちができることをすればよいとは何と素晴らしいことか。できもしないことを抱え込んだりせずに、出来ることをすれば良いとはなんと素晴らしいことか」というのです。私たちは人と比較してはなりません。問題は誰がどんなものをどれだけ持っているかではなくて、それを生かして神のため、隣人のために用いるかどうかです。2タラント貰って、2タラント儲けた人は5タラント預かって5タラント儲けた人と全く同じ言葉を投げかけられているのです。そこに差別はありません。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」。「宝の持ち腐れ」という諺がありますが、誰が何をどれだけ持っているかは大したことではなく、与えられたものをどう用いるかが問題なのです。この譬で、もし商売に失敗して損をしたとしても多分この主人は僕を責めはしなかったことでしょう。例えば、第四の人には3タラント与えられており、その3タラントで商売をして、失敗し、借金まで背負い込んで、主人からひどく怒られたというようなことは語られていないのです。与えられているものを人と比較して威張ったり、落ち込んだりせずに、それを用いること、これがクリスチャンのスチュワードシップの考え方です。

 

4.神の恵みの豊かさが残酷に見えることがある

 第三に、1タラントを預かった人の言葉に耳を傾けてみましょう。多分この物語の中心メッセージはこの人の態度にあったのではないかと思います。「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました」この言葉が一体、何を意味しているのか分かりにくいですね。そこで私の経験から考えてみたいと思います。私は牧師をしておりまして、まあ教会員の皆さんと一緒に、一生懸命伝道をします。チラシを配ったり、特別集会をしたり、家庭集会も4、5箇所でやっておりました。一生懸命、種を蒔き、惜しまずに散らします。この人はもうそろそろ信仰を決心して、バプテスマを受けるかも知れないと期待して、祈ります。でもなかなか決心してくれないし、バプテスマに導かれないのです。そころが、ひょんな具合に教会に飛び込んで来られたり、妙な所で出会った人が、自分が蒔きもせず、散らしもしないところで、信仰の決心をされる。自分たちは、誰か他の人が苦労し、祈り、種を蒔き、誰かがその愛を浪費するかのようにし、散らすようにしたことを、たまたま、刈り取らせ、集めることが許されただけだ」という実感が多いのです。ですから、決して自分が何かやった、自分たちが導いてクリスチャンにさせたなどとは決して思えないのです。そして、自分たちの労苦したものは決して無駄にならないと考えるのです。今度はだれか他の人たちが、刈り取り、集めてくれるに違いないと思うのです。まさに伝道するということは神の恵みの業に預かることです。しかし、この恵みの業を逆の目でも理解できるのではないでしょうか。どうせ、自分の蒔いたもの、自分の努力の実を刈り取ることができないのであれば、そんな無益で、過酷なことはやりたくない。どうせ、他人の蒔いたものを刈り取ることになるなら、「果報は寝て待て」と開き直る。これが私たちの態度ではないでしょうか。神の恵みが余りにも大きいので、貧しい私たちにはそれがかえって「無益で」「厳しいこと」「厳しい方」に見えるのです。事業をしておられる方、仕事をされている方は、自分の努力が実らない、残酷な現実に直面していることでしょう。しかし、信仰の目からすれば、「ご主人様、わたしはあなたが、蒔かない所からも刈り取って下さり、自分で散らさない所からも集めて下さる恵み深いお方であることを承知していますから、安心して、喜んで努力してみました。私の播いたものは実る気配もありませんが、きっと誰かが刈り取ってくれることでしょう。」と言うべきではなかったでしょうか。

 狭いわたしたちの料簡からすれば、神様の大きなご計画は残酷に思えてしまうのです。

 

5.賜物を発見し、生かす 

 最後に、この譬が語られた文脈に注目してみましょう。25章の1~13には5人の賢いおとめと5人の思慮のないおとめの譬が書かれています。この世の終わり、終末の到来の譬です。31節以下も、いわゆる「最後の審判」の譬です。すると今私たちが読んでいる話も終末の希望の譬であることになります。私たちの持っているものは、自分のものではなく、どう用いたかやがて神様に問われることになるのです。その日に、私たちは「良い忠実な僕よ、よくやった。一緒に喜んでくれ」というみ声を聴くことが許されるでしょうか。

 具体的なこととして、この譬を聴く私たちは、それぞれの仕事をどのように考えるでしょうか。職業は単なるお金もうけではないでしょう。今与えられている仕事を一度神様に委ねて受け取り直してみたらどうでしょう。今仕事を探している方が、自分の賜物に合った仕事が与えられるように、祈り、やはり努力して捜し回ることが必要でしょう。仕事から解放された方は、何か自分にできる小さなことを探し、自分を神様のために用いていただければ幸いです。子育ても神の国にお仕えする立派な働きでしょう。でも、一度神様にお委ねして受け取りなおしてみたら少し楽になるかも知れません。また、礼拝に出席することが最上の奉仕であると申してきました。神を礼拝することから力と動機付けと慰めをいただいて、教会で何か一つ、奉仕を発見して、それを担えたら素晴らしいと思います。そして、ちょっと欲張りかもしれませんが、さらに、地域社会での何かの働きを発見して、隣人に奉仕をしていきたいものです。週の初めの日を神様に捧げ、礼拝すること、時間をやり繰りすること、経済をやり繰りして、献金することも大切なスチュワードシップですが、自分に与えられているタラントを発見して、それをよろこんで用いることも大切なスチュワードシップです。もし、健康を害して、礼拝に出席することができなくなったら、イエス様がその方の処へ出て行かれて、共にいてくださるに違いありません。そして、他者のため、教会のために「祈る」という最も大切な奉仕ができるに違いありません。なぜなら、「わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられてい」るからです。