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2016.6.5 「救いを受け取る」 (全文) マルコによる福音書15:6-15

 今日は花の日礼拝です。150年ほど前に、子どもたちが神様に守られて、信仰が育てられることを願い、まず「子どもの日」が作られました。「子どもの日」は、神様に子どもたちの成長をお願いし、感謝する特別な礼拝を守る日です。そして、この時期に、花がいっぱい咲くことから、花を持ち寄って飾ることが始まり、「花の日」「花の日礼拝」とも言われるようになりました。花の日礼拝は、花が、神様からの、太陽の日差しや、雨の恵みをいただいて成長しているように、すべての者が、すくすくと元気に大きくなることを願った日、そんな礼拝の日です。これが「花の日礼拝」です。

 今日は、この礼拝の後に、病気でなかなか教会にくることのできない方がたのところにお花を持っていきます。ぜひ花とその香り、そしてまた、キリストの香り「福音」を携えていきたいと思います。

 

1:   キリスト教の根幹

 ある本でこのように記されていました。「キリスト教は宗教というよりも福音であります。」そしてこのように続きます。「今日の世界に向かって、教会のメッセージは、人々に愛せよと命じたのではなく、人々に信ぜよと命ずるのである。いかにして神は人々を愛しているかを語れ。罪人はそれを信じるように彼らに命ぜよ。神の愛への直接応答として信仰を語れ、神の愛への最初の応答は、愛ではなく信仰である。信仰を語れ。そうすれば、愛はそれ自体、信仰から生まれてくる。われわれはわれわれが感じている愛によって救われるのではなく、われわれが信じた愛によって救われるのである。」

 この言葉によると、キリスト教が教えていることは、最初に「愛しなさい」ということではなく、まず「神様の愛を信じなさい」ということであるということです。私たちが感じている人間的「愛」はどこか不完全なものであるということ、「感じている」とは私たち自分自身がなんとなく、自己中心的なものとして受けているものであるということ。いわゆる「好き」とか「好かれている」とか、そのようなものを越えていると感じていても、どこか不完全なものでしかないということ。そのような、人間の限界性を教えている言葉ではないでしょうか。

 以前いた教会で、私にある信徒がこのようなことを尋ねてきました。「最近、神様の愛というものがわからなくなってきました。神様の愛とはいったいどのようなものなのでしょうか。」その方のお話をよく聞きますと、最近ご家族での関係がうまくいっていないことがわかりました。そのような中にあって、「どこで自分が愛されているのか」と感じていたようです。

 確かに、幼稚園の子どもたちにも、「おとなりの人と仲良くしましょう、そこに神様の愛が感じられるようになります」とも教えています。そのように隣にいる人、特に家族やお友だちとの関係がうまくいっているときに、私たちは、「自分が愛されている」「大切に思われている」「生きている意味、存在している価値があるのだ」とよく感じるのではないでしょうか。このこと自体は私たちの人間的感覚によるもので、そのこと自体とても大切なものであります。

 

 しかし、先ほど言いました言葉は。 神様の愛は、そのような私たち人間の思いを越えているということを教えているのです。私たちが思って以上に私たちは愛されているということ。そして、私たちが知ることができるのは、この地上においてはほんの一部分であるということです。「家族から愛されている」と感じる時、それは神様の愛のほんの一部を感じている。神様の愛はもっともっと大きなもの、深いものであることを覚えていたいと思います。

 そしてわたしたちはその一部分を知り、神様の愛を見る時に、自分が見ている以上の、大きな愛を信じたい、受け取っていきたい。この神様の愛を信じることを信仰というのでしょう。わたしたちは神様に愛されているのです。これが聖書の語る、私たちへのメッセージです。

 

 今日の箇所は、ピラトによって、イエス様が十字架の判決を受ける場面です。 イエス・キリストが十字架において死なれたこと。この出来事。神が人間となり、人間として生きて、そして人間のために死なれたこと。この出来事は、神様がわたしたちを愛されていることを表す出来事です。神様の愛は、私たちに表された。それはイエス・キリストの十字架における死によって表されたのです。私たちは、この十字架の死によって、神様の愛を受け取るのです。罪ある者が、罪の赦しを与えられるのです。罪の赦し。それは、神様の愛を信じる信仰を持つことを許されたともいえます。神様が愛してくださっている、その恵み、その愛に目を向ける道が、イエス・キリストの十字架によって開かれたのです。

 この神様の愛を、その深みを、今日、私たちは共にいただきましょう。そして、罪の赦しと、信仰によって、私たちは、神様の愛を、より一層、深く受け取っていく者とされていきたいと思います。

 

2:  ピラトの判断

 今日の箇所で、ローマの総督ピラトはこのように言います。「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」。(12)「いったいどんな悪事を働いたというのか。」(14)この言葉に対して、群衆はただただ「十字架につけろ」「十字架につけろ」(13、14)と叫びます。ピラトは、群衆を満足させるために、イエス様を十字架につける判決を下したのでした。

 ピラトはイエス様を最初から十字架刑としようとしてはいなかったのでしょう。このとき、ピラトはイエス様が「どのような悪事を働いたのか」と聞く、つまり「無罪ではないか」と理解しているのです。イエス様は、神様の前でも、そして、世の権力の前でも、「無罪」とされているのです。しかし、群衆の叫びが大きくなる中で、ピラトは、自分が「無罪」と宣言した、自分の主張に、立ち続けることはできませんでした。ピラトは群衆を満足させるために、イエス様を十字架につけるという判決を下しました。

 ピラトは、群衆という大きな叫びに対して、自分のもつ考えを捻じ曲げたのです。ピラトが、その考えを捻じ曲げた理由は、群衆のためということであるでしょうが、その理由のもう一つに、自分の立場を守るための行為であったと考えられます。ピラトは、自分の安全、自分の立場を守ることのために、十字架の判決をくだしたのです。実際に、ローマの総督である者として、民衆の騒動が起こることは、統治者としての不手際を責められることになったかもしれません。これが大きな暴動となってしまえば、ローマの総督としての能力を疑われたのでしょう。ピラトは自分を守るために、自分の安全のために、主イエス・キリストを十字架につける決定をくだしたのです。

 これはとても現実に生きる人間の判断であります。わたしたち自分自身も、何に関して判断するときにも、どこかで、自分にとって利益になるか不利益なことになるか、考えている。ピラトが表す姿のように、自分の立場、安全、利益を考える。それが人間的判断です。そしてそれが私たち人間の弱さとも言えるでしょう。

 

 ピラトの仕事は、ローマの総督として、この地域一帯を治め、暴動や騒動をなくすことです。ローマの総督として、ピラトの任務、すべきことは人間的な平和を維持することです。ピラトは、そのためには一人の罪なき者を十字架にかけること、捨て去る道を選んだのでした。ピラトは、イエス・キリストが「無罪」であることを分かっていたのです。しかし、自分の未来のために、自分のこれからのために、そしてローマのために、無罪なイエスではなく、罪人バラバを釈放することを選んでいくのです。このピラトの姿は、私たちの弱さを表しているでしょう。

 わたしたちもまた、自分の立場を守るためには、正しい事柄を、捻じ曲げてしまうことがあるのではないでしょうか。そこにはさまざまな理由をつけて、「しかたがなかった」「自分や家族のためなんだ」「多くの人を守るために、一人、二人の犠牲者は仕方なかったのだと」、真理を捻じ曲げてしまうことがあるのではないでしょうか。これは人間社会においてどこにでも起こっている、不誠実な出来事でしょう。学校でも、会社でも、そして教会でも、家族の中でも。この社会のすべてのところにおいて、自分のために、そして多くの者を守るために、少人数の犠牲者があることは仕方のないことだと考えている。それが当然だと考えていないでしょうか。

 いったい、本当に私たちを守り、私たちのことを考え、真理を真理とするのは誰でしょう。能力でしょうか、名誉でしょうか、権力でしょうか。

 私たちが神様の教える真理から離れていくこと。神様ではなく、権力や名誉、能力や財産に頼り始めていくこと、これが私たち人間の弱さであり、罪とされるものなのです。そしてこの人間の自己中心的価値観が、イエス・キリストを十字架につけていくのです。わたしたちが神様を見ないで、自己中心的価値観で生きる時に、私たちは自分の命を造られた方を、自分の命を脅かす者として「十字架につけろ」と叫ぶのです。そのとき、わたしたちの価値観は、囚人を守り、そして本当の真理である方を見捨てるものとなっているでしょう。

 今日の箇所において、ピラトは、イエス・キリストを捨て、バラバを釈放しました。これが、ピラトの神様への裏切り、イエス・キリストへの裏切りであり、人間が神様を裏切っていく姿を表すのです。

 

3:   イエス・キリストの十字架

 イエス・キリストは十字架へと向かいます。これは、暴動を恐れるピラトの弱さ、そして扇動された民衆、そしてユダヤの指導者のねたみという3つの罪が重なりあう中で、起こされた、罪の連鎖の中で起きた、人間の罪の象徴とも言える出来事であります。人間の罪の象徴である十字架。イエス・キリストは、この十字架の上で死なれました。そして、十字架の上で、わたしたち人間の罪を背負われたのです。人間の罪を、十字架の上で、イエス様が、死をもって、代わりに背負ってくださった。それが、十字架の出来事です。

 この出来事を、聖書ではこのように記しています。

 Ⅰヨハネ4:7-12

 「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」

 

 神様は、私たちを愛された。イエス・キリストの十字架によって、その愛を示されたのです。それは私たちが神様を愛したのではなく、つまり、私たちが神様を見つめ始めたのではなく、まず神様が、私たちのことを見つめてくださったのです。それは、十字架という死の出来事をもって。人間的価値観で見るならば、弱く、小さく、捨てられた者とされる、十字架の中で。神様は愛を示されたのです。ピラトが求めたもの。それは自分を守るため、そして自分の利益のための行為でした。しかし、神様は自らを捨てられた。そこには価値観の変換があるのです。

 私たち人間は、この世的権力、名誉、財産に頼り生きていく。しかし神様はすべてを捨てられた。命までも。そしてそのことによって、私たちに愛を示されたのです。これが本当の愛だと。愛は、自分を捨ててまで、隣の人を大切に思い続けた中に表されたのです。

 

4:   バラバの釈放

 今日の聖書の箇所では、ピラトがイエス様を十字架刑と定める中で、一人の囚人が釈放されます。それはバラバという暴動と殺人の罪に問われていた者でありました。イエス様の十字架で、直接救われたのは罪人バラバです。十字架によって、一人の囚人が救われたのです。この一人の囚人が救われることは、イエス・キリストの十字架に対する人間の態度をよく表しています。この時、一人の「無罪の者、イエス・キリスト」が「有罪」と捨てられることによって、「有罪の者、バラバ」が「無罪」とされたのです。この出来事は、まさに、イエス・キリストの十字架による、私たちの罪の赦しを象徴的に表します。イエス・キリストの十字架は、すべての人間という者が、罪のゆえに、神様から捨てられるはずであった。しかしそのすべての者が、赦されて、救われたのです。

 バラバは、この救いを理解していたでしょうか。イエス様の死によるものであったと知っていたのでしょうか。人間はすべての者が、このバラバのように、知らずのうちに釈放されて、救いだされているのです。バラバは、なぜ、誰によって、どうして、救われたか、理解していなかったでしょう。バラバは、イエス・キリストの十字架を見上げるときに、その十字架で苦しんでいる、イエス・キリストが、自分の代わりに罪とされた者とは知らずに、ただその十字架を眺めていたことでしょう。

 私たち人間は、このバラバなのです。なぜ、どうして、救われたのか。イエス様が命をかけてまで、自分の代わりに罪を担ってくださった。この救いの出来事を見ることも、知ることもなく、ただイエス様の十字架をながめているのではないでしょうか。それでも、イエス・キリストは、私たちのために、十字架にかかり、愛し続けているのです。イエス様は、十字架を通して、すべての人に、神様の愛を表されたのです。

 

 今、私たちは、イエス・キリストの十字架による、神様の愛の深さを知っていきたいと思うのです。私たちの生きている現実に神様の愛は注がれているのです。私たちは、神様の愛を見ているでしょうか。私たちは神様の十字架という死を通して示された愛を、見出そうとしているでしょうか。自分の考え、人間の造りだしている、社会的価値観を大切に守ろうとしていないでしょうか。神様は自らの命を投げ出してまで、私たちを愛しておられるのです。私たちはこの神様の愛を知り、受け取るために一歩進みだしていきたいと思うのです。

 神様は、私たちを愛されているのです。私たちは、ただ一歩神様の愛に歩き出すこと、その一歩踏み出すことが、私たちの信仰なのです。信仰は、すでに愛されている神様の愛の深さを信じて飛び込むことです。今、私たちは、神様から、イエス・キリストの十字架を通して、愛を示されたのです。この神様の愛を信じましょう。

 そして、それは他者と共に生きる道です。神様の愛に飛び込むときに私たちが知るのは、愛されていること、そして愛する喜びです。私たちは、信じる信仰から、共に愛し合う愛を、頂いていきたいと思います。神様が私たちを愛してくださり希望を下さったことを信じる、信仰をもって、一日を、歩みだしましょう。