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2016.5.29 「信仰の継承と発展」 (全文) 申命記6:16-25

1. 申命記――次の世代に対するメッセージ

 今日私達は申命記を読みました。エジプトで奴隷生活をしていたイスラエルの民は、主なる神の御業によって解放されました。その後、彼らはシナイ山で主なる神と契約を結び、約束の地カナンに入ることになっていました。しかし、イスラエルの民は、主なる神に対する不信仰の故に、40年もの間、荒野で放浪生活をしなければならなくなりました。そして、出エジプトを実際に経験した第一世代が荒野で皆死んだ後、主なる神は次の世代を備え、約束の地カナンに導かれました。

 モーセは、約束の地を目の前にした第二世代が主なる神から離れてしまうことがないよう、彼らに向けて律法の説き明かしをしました。申命記には、新しい世代が以前とは異なる環境にあっても主なる神だけを礼拝し、主なる神の御心に従って生活するために心に刻むべき戒めが記されています。

 先月末、私は、西南学院大学神学部の他の学生の方から一通のメールを受け取りました。それは、西南学院大学に客員研究員として毎年来日されるユダヤ教のラビ(教師)が、神学部の寮で先生や学生と一緒に行った「過越祭」というユダヤ教の祭りの様子を撮影した写真でした。私自身はこの行事を欠席したのですが、その写真を見て、一つのことを考えさせられました。それは世代から世代へと信仰が受け継がれてきたユダヤ人の姿です。

 かつて私は関西学院大学神学部で4年間学びました。その時、5代目のクリスチャンという同級生がいました。彼の高祖父は日本のメソジスト教会の監督も務めた牧師でした。正直に言うと、私は彼のことをとても羨ましく思いました。私自身は、当時イエス・キリストを主と信じるようになって余り月日が経っておらず、家族にもクリスチャンは誰もいなかったからです。勿論、彼にも信仰上の悩みはあったに違いありません。それでも、私と彼は、中学から英語を習い始めて、文法や単語を覚えたばかりの人間と、ネイティブのアメリカ人ほど差があるように思われました。

 とはいえ、その彼でさえ、ユダヤ人の4000年の歴史から見れば、《まだ》5代目です。彼の高祖父が信仰に導かれてから、《まだ》150年も経っていません。ユダヤ人は、幼い頃から律法を暗唱し、日常生活の中で聖書に慣れ親しんでいました。そして、旧約聖書に記されている出来事、ユダヤ人の歴史を覚えてお祭りを祝いました。しかも、それを何十世代にもわたって続けてきました。ユダヤ人がいかに信仰の継承を重視してきたかを思う時、私は驚嘆せずにはいられません。

 

2. 世代から世代へ継承されていくべき信仰――決して個人主義的ではない「律法」

 翻って私達クリスチャンはどうでしょうか。私達は家族や友人を教会に誘います。初めて来られた方が教会に繋がるよう努力します。また、クリスマスや特別伝道集会の前には案内チラシを配ったり、手紙を書いたりします。こうした伝道の業が大切であるのは言うまでもありません。しかし一方で、次世代への継承の問題についてはどれだけ考えてきたでしょうか。

 この点について、私自身は全く出来ていませんでした。具体的に言うと、バプテスト教会は個人の主体的な信仰を大切にします。それ故、ローマ・カトリックやプロテスタントの他のグループのように、幼児洗礼は行いません。しかし、私はそのことを、信仰というのは全く個人的な事柄であるとずっと誤解していました。そして、将来結婚して子供が生まれた場合、その子に信仰を押し付けるようなことはしてはいけない、イエス・キリストを信じるかどうか、バプテスマを受けるかどうか、教会に行くかどうかは、あくまでもその子の主体的な決断に委ねなければならない、それがバプテストであると長い間考えていました。もしその子が「信じない」という決断をしたならば、個人的には残念だけれども、信仰はイエス・キリストと本人の間の問題だから、それ以上は何も言えないと思っていました。

 しかし、聖書、特に「律法」と呼ばれる旧約聖書の最初の5つの書物を読む中で、私のそうした理解は、余りにも個人主義的で、聖書が教えていることからは大きく離れているということに気付かされました。

 夜の祈祷会では今創世記が読まれていますが、主なる神がアブラハムと結んだ契約は《彼とその子孫》に対する約束でした。アブラハムは、祝福の源とされること、子孫が繁栄する、土地が与えられることを主なる神から約束され、故郷の地を捨て、旅を続けました。しかし、彼の代において自分のものになった土地はごく僅かでした。モーセにしても、申命記で次の世代に向けて教えていますが、彼自身は約束の地に入ることが出来ず、その直前で死を迎えます。

 もしアブラハムやモーセが「自分が豊かにならないなら何の意味もない。後の世代がどうなろうが、その時には自分はもう死んでいるのだから知ったことではない」という考えの持ち主だったならば、自分のこれまでの人生について馬鹿馬鹿しく思われたでしょう。しかし、彼らはそのようには考えませんでした。

 主なる神は、私達に一代限りではなく代々にわたって御心の実現のために働くことを求められました。私達の人生は短いので、一代で出来ることは限られています。また、私達自身はその実りを見ることは出来ないかも知れません。だからこそ、信仰を次の世代にしっかり伝え、神の国をこの地上において拡げていく働きが何世代にもわたって続けられる必要があります。信仰は一代限りのものではなく、継承されるべきものです。信仰に導かれる人が起こされても、二代目、三代目、四代目と継承されていかなければ、私達はいつまで経っても一からのスタートになってしまいます。そこで、主なる神が信仰の教育と継承のためにご自身の民にお与えになったのが律法です。

 

3. 主なる神を試してはならない(16)――自分を主なる神の上に置くことへの警告

 では、今日の聖書の箇所では、私達が主なる神に従って生活するために大切にすべきこと、次の世代に伝えるべきこととしてどのようなことが語られているでしょうか。

 まず16節に「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない」とあります。「マサにいたとき」というのは、出エジプト記17章に記されている出来事のことを指しています。この箇所には、イスラエルの民が深刻な水不足を経験したことが記されています。喉が渇く民は、指導者であったモーセに「我々に飲み水を与えよ」(2)と不平を言いました。それに対し、モーセは「なぜ、主を試すのか」(2)と言いました。

 「試す」というのは、「試験をする」ということです。十年以上前の話ですが、私は或る会社の採用試験を受けました。その時、面接者から、何か芸を披露して、彼らを笑わせるよう求められました。私は、そのようなことを言われるとは全く思っていなかったので、何の芸も浮かばず、不採用になりました。しかし、他の応募者の方は面接者を何とかして笑わせようと色々な芸に挑戦していました。面接後、応募者の一人が建物を出た途端、「下らないことを求めてきやがって」とぼやいていました。しかし、その彼も懸命に物真似をしていました。採用するかどうかは面接者が握っているからです。試験をする者はされる者よりも、評価する者はされる者よりも圧倒的に優位にあります。

 では、ここでの主なる神と人間の関係はどうでしょうか。困難に直面した時、イスラエルの民は、モーセに不平不満をぶつけただけでなく、主なる神が本当に信じるに足る方なのか、付いて行くに値する存在なのかを疑いました。そこで、自分達にきちんと飲み水をくれるかどうか、主なる神を見極めようとしました。つまり、今の喩えで言えば、イスラエルの民が面接者の席に座って、主なる神を自分達の前に立たせ、自分達を喜ばせるような芸をするよう求めたわけです。そして、信じるに値しないと彼らが判断した場合、主なる神は彼らから「不採用」と引導を渡されることになります。勿論、これがあべこべの状態であるのは言うまでもありません。

 主なる神は、イスラエルの民がこれからカナンの地に入っていく時、またカナンに入った後、同じような状況に彼らが何度もぶつかるのをご存知でした。実際、イスラエルは、その後主なる神は当てにならないと判断して、別のものに頼るということを繰り返しました。だからこそ、モーセは、イスラエルの民にその時のことを思い起こさせ、「あなたたちの神、主を試してはならない」と警告しました。

 

4. 主の目に適うことを行う者に与えられている約束(1719)

 自分を主なる神の上に置き、主なる神を試験しようとする誘惑は私達にも襲ってきます。しかし、そこで主なる神の言葉に従い続けるならば、主の導きのもとにその困難を乗り越えることが出来ます。17節から19節でモーセは次のように勧めています。

 「あなたたちの神、主が命じられた戒めと定めと掟をよく守り、主の目にかなう正しいことを行いなさい。そうすれば、あなたは幸いを得、主があなたの先祖に誓われた良い土地に入って、それを取り、主が約束されたとおり、あなたの前から敵をことごとく追い払うことができる」。

 「主の目にかなう正しいことを行う」というのは、主が正しいとされること、良いとされることを行うということです。私達が良いと思うこと、私達が正しいと思うことではありません。イエス・キリストを主と信じる者として生きようとする時、私達は、自分がどう思うか、どう感じるかよりも、主がどのように考えておられるか、私達に何を求めておられるかを優先しなければいけません。それは私達の感情や理性から見れば、受け入れるのが難しいものもあります。また、そうすることによって短期的に不利益を被ることもあるでしょう。しかし、主なる神が良いとされることを行う時、主なる神は私達に勝利を与えて下さいます。

 

 5. 子供達に語り継ぐべきこと(2025節)

 約束の地カナンにはイスラエル以外の民族が既に暮らしていました。そして、彼らは主なる神を信じているわけではありません。カナンに到着した後、イスラエルの民は、当然のことながら彼らと接触したり、彼らの生活習慣を見聞きする機会が出てきます。その時、子供達が主なる神の戒めに従うことに一体何の意味があるのかと感じたとしてもおかしくはありません。そして、「主が命じられた定めと掟と法を守らなければならない」などと堅苦しいことを言わずに、周りの人がやっていることを柔軟に取り入れたらいいではないかと親に疑問を投げかけてきます。

 私達も今何人かの子供達と一緒に礼拝をささげています。しかし、ここにいる子供達も、信仰の戦いがないわけではありません。クラスの友達が日曜日に一緒に遊ぼうと誘ってくる。野球のリトルリーグやサッカーのチームなどに入っている。家族と一緒に博多や天神に遊びに行ったりしている。中学受験に向けて塾に通っている。或いは、先週は福岡市の公立小学校で、今日は公立中学校で運動会があると聞きました。そのような中で彼ら彼女らは今こうして礼拝を守っています。

 それ故、モーセは「将来、あなたの子が、『我々の神、主が命じられたこれらの定めと掟と法は何のためですか』と尋ねるときには、あなたの子にこう答えなさい」(2021)と語ります。次の世代の子供達にしっかりと語り継いでいかなければならないことがあります。そして、その内容が21節から25節に記されています。

 

 (1) 主なる神は奴隷状態からイスラエルを救い出された(2123)

 第一に、モーセは、主なる神がエジプトで奴隷状態にあったイスラエルの民を救い出し、約束の地に導かれたことを次の世代にしっかり伝えなければならないと教えました。21節から23節に「我々はエジプトでファラオの奴隷であったが、主は力ある御手をもって我々をエジプトから導き出された。主は我々の目の前で、エジプトとファラオとその宮廷全体に対して大きな恐ろしいしるしと奇跡を行い、我々をそこから導き出し、我々の先祖に誓われたこの土地に導き入れ、それを我々に与えられた」とあります。

 ここで私自身の《出エジプト》の出来事について少し証しをさせて下さい。私は、人間を家柄や社会的地位、肩書などで評価し、世間体を非常に気にする家庭に生まれ育ちました。そして、両親からは世間で評価されている《格の高い》職業に就くことを期待されました。

 しかし、入学したキリスト教主義の高校で自分より何もかも優れている同級生に出会いました。彼ら彼女らは私よりも勉強が出来ました。私よりもスポーツが出来ました。私よりも豊かな趣味を持っていました。私よりもお洒落でした。私よりも社交的で、人付き合いが上手でした。そして、親が医師や弁護士、公認会計士、大学教授、新聞記者、会社の社長、或いは百年以上続く老舗の跡継ぎというような子が多くいました。私は、自分が何の取柄もない、何の価値もない屑みたいな人間のように思われました。そして、生きていることに意味を見出せなくなりました。

 しかし、そのような中で、私は、朝のチャペル礼拝やキリスト教学の授業をきっかけに聖書に触れました。不思議な人――それがイエス・キリストに対する私の第一印象でした。誰でも出来るならば《偉い人》のグループに自分も加わりたいと願うものなのに、この方は当時のユダヤにおいて蔑まれていた人達のもとに進んで足を運び、彼らと親しい交わりを持たれたからです。しかし、その生き方や言葉がどこか気になり、イエス・キリストのことをもう少し詳しく知りたいと思い、家の近くの教会に初めて行きました。

 イエス・キリストは力ある御手をもって私を救い出して下さいました。世間体や他人の評価の奴隷であった私を、神の国というそれとは全く異なる価値観が支配する世界へと招いて下さいました。

 

 (2) 主なる神の戒めを守る者に与えられる幸い(24)

 第二に、モーセは、主なる神を畏れ、主なる神が命じられたことを守る時、常に幸いに生きることが出来るということを、次の世代にしっかり伝えるよう教えました。24節に「主は我々にこれらの掟をすべて行うように命じ、我々の神、主を畏れるようにし、今日あるように、常に幸いに生きるようにしてくださった」とあります。

 主なる神から掟を与えられたと聞くと、奴隷状態から折角解放されたのに、また束縛の中に逆戻りしてしまうのではないかと私達は思ってしまいます。しかし、そうではありません。主なる神の掟を守ることは私達に却って幸せをもたらします。

 また、主なる神の言葉ではなく、別の何かに依り頼む所に果たして自由はあるでしょうか。実際、その後のイスラエルの歴史を見るならば、主なる神の律法に従って歩もうとしていた時ではなく、律法から離れてしまった時に、彼らは不自由になりました。様々な偶像に縛られ、富や性、欲望の虜になりました。アッシリアやバビロン、エジプトといった周りの大国の顔色ばかり窺うようになりました。勿論、彼らは自分では目の前の状況に柔軟に対応しているつもりだったかも知れません。しかし、実際には神の民としての自分を見失っていき、最終的には国を失いました。

 主なる神が命じることを行おうとする時、私達は融通の利かない人間とか、空気を読めない(KY)人間と思われるかも知れません。しかし、イエス・キリストを主と信じる者として、主なる神の掟に従うことは、「皆は○○していても(○○していなくても)、私はキリスト者として○○しない(○○する)」と私達の生き方に一本の芯を与えてくれます。それは本当の意味で自由な生き方です。

 

 (3) ご自分の命じたことに従おうとする者を、主なる神は決して見捨てない(25)

 第三に、モーセは、主なる神がお命じになったことを忠実に行おうとする者を主なる神は決して見捨てないということを、次の世代に伝える必要があると言いました。25節に「我々が命じられたとおり、我々の神、主の御前で、この戒めをすべて忠実に行うよう注意するならば、我々は報いを受ける」とあります。ご自分が命じた戒めに従おうとする者を、主なる神がどうでもいいと思ったり、ほったらかしにされることはありません。

 私達も毎日の生活において「イエス・キリストなんか信じて何になるんですか?」「聖書はそう言っているかも知れないけれども、本当にそうですか?」「堅苦しいことは言わずに、ちょっとぐらい良いじゃありませんか」と言って、私達をイエス・キリストから引き離そうとする様々な誘惑があります。だからこそ、聖書の言葉に堅く立とうではありませんか。そして、子供達にもイエス・キリストによる救いをきちんと伝え、主なる神を愛し、畏れること、主なる神の言葉に従うことをきちんと教えていこうではありませんか。 (柏本 隆宏)