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2016.4.24 「新しい時の始まり」(全文) 詩編98:1-9

1:  新しい歌

 聖書は言います。「新しい歌を主に向かって歌え。」(1)今日のメッセージはこの言葉にすべてが集約されます。私たちには「新しい歌」が与えられているのです。「新しい歌」をもって賛美していきましょう。神様は、私たちに「新しい歌」を与えてくださいました。

 「新しい歌」とは、神様が私たちに与えてくださった「新しい命」の喜びを歌う歌です。一日一日生かされている、日々いただいている「新しい命」を喜ぶのです。私たちは神様によって生かされています。神様によって日々、新しい命が与えられているのです。「新しい命」は「希望」を生み出します。困難のうちにあるとき、この賛美の言葉を思い出しましょう。「新しい命」は、必ず与えられるということを。

 聖書はこのようにも語ります。「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道を備えていてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)

 神様は人間の考え、思い、理解をはるかに超えて「新しい命」を与えてくださるのです。私たちに「新しい歌、新しい命」が与えられています。この与えられている歌、「新しい命の賛美」をもって賛美していきたいと思います。

 

 聖書は言います。「新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって、主は救いの御業を果たされた。」(1節)神様は驚くべき御業を、救いの御業を与えてくださいました。この新しい歌、救いの御業、それは人間的新しさ、目新しい救い、突然変わった出来事を意味しているのではありません。

 現在は、日々、新しさが変わります。現在の変わるスピードはすごいものです。社会において、新しさの先頭、ブームの先端を歩き続けることは、とても大変でしょう。毎年、流行語は変わり、すぐにその流行語も忘れられていきます。ちなみに、昨年度の流行語は何だか覚えている人はいるでしょうか。2015年度は「爆買い」と「トリプルスリー」でした。人間的新しさは本当の新しさではなく、いずれ過ぎ去るものです。人間の時間的新しさで見て、「新しいもの」とはいずれ過ぎ去り、すぐに「古いもの」となってしまう、そのようなものでしかないのです。

 キリスト教においても、その「福音」の理解についてはそれぞれ時代によって変化します。それは実際に生きる私たちが、それぞれの場、それぞれの時間に本当の命ある言葉としていただくときに必要とされることでしょう。しかし、その根源、その基となる、神様の愛、それは永遠に変わらないものです。神様は永遠に変わらない愛をもって、私たちに本当の新しさ、新しい命の素晴らしさを教えてくださっているのです。

 神様の救いの福音。それは昔から、イスラエルに約束されてきました。イスラエルに約束されてきた「救い主」「メシア」の到来。そこに本当の神様の愛が示されるときがくるという、昔から変わることのない、そして永遠に変わることのない「救い」の出来事が約束されてきました。その「メシア」「救い」の到来を、神様は、イエス・キリストの十字架による救いの御業としてあらわされたのです。イエス・キリストを通して、表された救いは、人間に「新しい命」を与えてくださいます。

 それは弱き者に力を与え、貧しい者が大切にされ、困難の中にあるものに新しく生きる力を与えるという、神様の御業です。私たちは「新しい命の賛美を歌うのです」。そして「新しい言葉を発するのです」、そして「新しい道を歩み始める」のです。イエス・キリストによる救いを基とする、イエス・キリストの十字架による救いを、私たちは与えられました。イエス・キリストの十字架は、新しい命の道の幕開けでありました。神様は絶望の中に希望を与え、悲しみの中に喜びを与え、死の中に、新しい命、「生きる」ことを与えられたのです。

 

 先日、熊本・大分では、大きな地震が起こりました。そして今もその地震が続いています。熊本・大分に住まわれている方々、被災された方々は、この地震がいつまでつづくのか、不安の中におられます。これからどうなるのか、わからない。いつまでこの地震が続くのか。見通しのつかない不安が続いているのです。私たちは、被災された方々のために祈りたいと思います。そしてまた、このような時だからこそ、私たちは神様によって、必ず新しい時がくるという希望を持っていたいと思うのです。神様は希望を与えておられます。見通しのつかない不安の中にあっても、その暗闇は必ず取り払われるという希望を指し示してくださっているのです。今、わたしたちは、イエス・キリストの十字架から希望を受け取っていきたいと思います。今日は、この神様の救いの御業について、もう少し詳しく学んでいきたいと思います。

 

2:  すべての人が救われた

 今日の箇所3節で「イスラエルの家に対する、慈しみとまことを御心に留められた。」と語り、そしてまた、「地の果てまですべての人は、わたしたちの神の救いの御業を見た。」と続きます。この詩編98篇の賛美は、世界全体「地の果てまで」のためになされた神様の救いを歌います。聖書は「新しい歌」として「神様の全世界の救い」を歌うのです。「イスラエル」に対しての約束が、「地の果てまで、すべてのひと」の救いとして広げられていくのです。新しい歌」には「イスラエル」という限定された民族に対しての救いが「すべての人」に広がっていくことを喜ぶことが含まれます。「救い」は「イスラエル」から「すべての人」に広がっていくのです。

 神様の救い。その新しい契約。それはイエス・キリストによって行われました。イエス・キリストの十字架による救いは、すべての人々が救われるための御業を意味しているのです。地の果てまで、神様の救いには取りこぼしがなく、すべての人が救われるのです。「新しい御業」「驚くべき御業」それは全世界、そしてすべての人々が救われる、すべての人間、一人一人が救われるためのイエス・キリストによる救い、それが「新しい命の道」なのです。

 主は言われます。私たち、一人一人に向かって、「喜びの叫びをあげよ」(4)と。それは私たちが声を合わせて賛美をすることを求め、願った神様の言葉です。すべての者が救われました。それは、私たち一人一人が、共に向かい合って、共に手を取り合って、喜び、共に歌う中で与えられるのです。喜びの叫びは、だれか一人が勝手に歌う歌ではありません。私たちが隣の人が「喜ぶ」声を引き出す者とされるということです。すべての人が救われる。それは、私たちが共に生きる、生きて行こうという思いから実現されていく出来事なのです。今こそ、私たちは、すべての人と共に、声を合わせて、イエス・キリストの与えてくださった恵みを、賛美していきたいと思います。

 

3:  新しい時

 聖書の御言葉は、7-8節において「新しい時」を示します。「海とそこにみちるもの」、そして「山々」も合わせて、本来「混沌「混乱」を意味する言葉でもあります。神様によって造られた被造物でありながら、この地上での「混乱」を意味する「海」そして「山々」。その自然の「混沌」が、ここでは、神様を賛美するものと造り変えられる、新しい創造が、ここに示されているのです。「潮よ、手を打ち鳴らし、山々よ、共に喜び歌え」とは、まさに新しい「創造の時」、海と山々、その「混沌」に、調和が与えられ、「創造」が与えられたことを賛美せよとの言葉です。神様は新しい創造をなされました。混沌から調和に、新しいものを造りあげるのです。神様の創造、それは新しい命の創造です。それが「救いの御業」「新しい時」恵みの御業なのであります。混沌の中にあって、海と山々の混沌の中にあって、神様が新しい創造を成し遂げられた。それは混沌からの調和、それが、私たちに与えられた恵みの御業、救いの出来事であります。

 この救いの御業、創造の出来事は、イエス・キリストの十字架を通して、私たちに与えられました。私たちに「新しい創造」が与えられたのです。それは混沌からの調和の出来事です。私たちの心の中に、イエス・キリストが来てくださったのです。その時に、苦しみと憎しみの中に、愛が芽生え始めました。そして闇と悲しみの中に、信仰が与えられ植えられたのです。神様は、すべての人間の心の中にイエス・キリストを創造されたのです。そして救いの御業として、愛を注がれ、混沌の心の中に調和を与えられたのです。私たちの心の混沌を、イエス・キリストが受け止めて、そして新しい創造をして、調和を与えてくださっているのです。私たちを変えることが出来る、神様が、イエス・キリストを送って、愛を送ってくださったのです。そして私たちの心の中に新しい信仰が創造されたのであります。

 

4:  神様の公平

 詩編98:9「主を迎えて。主は来られる、地を裁くために。主は世界を正しく裁き、諸国の民を公平に裁かれる。」

 「救いの御業」の時は「審判者イエス・キリスト」であり、「罪人の代表イエス・キリスト」という現実を知ることから始まります。イエス・キリストの十字架は、私たちの罪の代表者となるために受けられた出来事です。イエス・キリストは罪なきものでありながら、人間という罪人の代表となるために、この世にこられました。そして私たち一人一人の苦しみを共に痛み、共に受け取り、歩まれたのです。そして私たちの罪のために十字架の上で死なれたのです。イエス・キリストは、十字架の上において罪の代表者、人間の代表者として死んだのです。

 神様の救いはこのイエス・キリストの十字架によって示されました。そしてイエス・キリストによって神様の愛が示されたのです。十字架の上で死なれたイエス・キリストが、三日後に復活されて世界の裁き主となられました。

 それはすべての人間が、正しく裁かれ、正しく赦されるためにであります。「新しい時」そして「新しい命」の到来は、人間が、絶望に生きるのではなく、神様に希望を寄せて生きるために、神様に信頼して生きるために「新しい時」が始まったのです。それはイエス・キリストの十字架の時、そして復活の時から始まりました。

 イエス・キリスト、救い主が世界の裁き主となって、「正しい裁き」をもって、罪を赦してくださるのです。それは、どんな罪でも、どれほどの罪でも、罪は罪人の代表者イエス・キリストがすでに受け止められたという前提のもとにおいてあるのです。私たちは十字架のイエス・キリストによって赦されたのです。今、私たちに与えられているのは、「自分の行為」による赦しではなく、神様を信じる「信仰」による赦し、それを受け取ることです。そして十字架という「新しい御業」「救いの御業」を信じることであります。 救い主イエス・キリストの与えてくださった恵みを賛美しましょう。そして神様の恩寵と慈しみを受け取り、新しい道を歩み始めていきたいと思います。

 イエス・キリストに出会う時に、私たちは新しい救いに出会う時です。わたしたちはこの恵みの時を、喜びをもって賛美しましょう。神様は新しい時を与えてくださいます。新しい歌を賛美しつつ、共に喜び、共に礼拝して、共に歩んでいきたいと思います。