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2016.4.3 「キリストの体としての教会」(全文) Ⅰコリントの信徒への手紙12:12-26

1:  コリントの状況

 今日の箇所で聖書は、「体」について語っています。この体とは、「キリストの体」としての教会、特に、このときはパウロが手紙を宛てた、コリントの教会に対して、「体は1つである」と語っているのです。当時、この言葉を受け取ったのは、コリントの教会です。このコリントの教会では、分裂があり対立がありました。それは、この書簡Ⅰコリントの最初にこのように記されていることからもよくわかるのです。

 「さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。」(Ⅰコリント1:10-12)

 コリントの教会には争いありました。それは、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」と言いあっていたというのです。そして意見の合わない人に対しては、「お前はいらない」「からだの一部ではない」と言い合っていた。それが、コリントの教会の現実でした。コリントの教会がバラバラになった一つの理由として、「だれだれにつく」という言葉にあるように、だれからバプテスマを受けたのか、また、だれの考えがすぐれているだろうかと、もめていた。

 そしてそれは今日の箇所においては「ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼(バプテスマ)を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」(13)と語っているように、コリントの教会には、ユダヤ人、ギリシア人、奴隷、自由人といった、違う民族、違う社会的背景の出身を持った人々がいたという、状況があったのです。

 「違いがある者が共に生きること」、このこと自体は本来、とても、恵みのこととなるはずのことです。違いを持っている多くの人々が集ることができる。お互いに違いを受け入れる。それはとても恵みの溢れている教会で、豊かな恵みの中で歩むことができる教会でしょう。わたしたちも「お互いの違いを喜ぶ教会」を目指したいと思います。「違いがある者が共に生きること」は恵みであり、私たちが目指したいところです。しかしまた、だからこそ、その道は困難だということもできるのです。文化が違い、立場が違い、民族が違い、言葉が違い、生きてきた道も違う。そのような者が共に生きることは並大抵のことではないのでしょう。それが、みんなができていれば、この世に争いはなく、戦争もなく、そして、そこでは貧困も痛みも、喜びに変えられる世界へと向かうでしょう。これが、私たちが主イエス・キリストを中心として目指すところでもありました。しかし、当時のコリントの教会では、キリストによる一致、お互いに違いを受け入れ歩むということはできていなかった。コリントの教会は、むしろ、違いを見つける中で、「お前はいらない」「教会の一部として必要ない」と言い合っていたのであります。コリントの教会の人々は、お互いの違い、それは、お互いの弱さや欠点を見つけては、「教会に、そのような欠点を持つ人はいらない」と、言い合っていた、そのように、お互いを、傷つけあっていたのであります。パウロは「足が、『わたしは手ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、『わたしは目ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。」(15-16)と語っています。

 

2:  教会は一つ

 パウロは、コリントの教会の人々に向かって「教会は一つ」と語ります。それはまた、13節に「つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」(13)一つの霊によって、わたしたちは教会に、そして神様に結ばれているのです。一つの神、一つの聖霊によってこそ、すべての者が教会に繋げられているのです。この聖霊の働きについて、少し前の箇所において、パウロはこのようにも語っているのです。

 Ⅰコリント12:3「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人はだれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」

聖霊とは、イエスを「主」と告白させる方、イエスこそが「救い主」だと告白させる方です。そして、同時に、聖霊は、イエスを「主」と告白する者をつなげる方でもあります。それぞれに違いがあり、思いが違い、考えも違う中で、わたしたちがイエスを「主」と告白する者としてつながる道を切り開く方でもあるのです。つまり、聖霊とは、神様とイエス様をつなげるように、私たち人間と神様をつなげ、また、私たち人間と人間をつなげる方なのです。

 この聖霊に導かれている者として、パウロは、「教会は一つ」であると語ります。

 

3:  キリストの体

 

 パウロは、このとき、教会のことを「キリストの体」として、比喩的に語っています。このように人間の体を使い比喩に語ることは、何も、教会において、パウロが、初めてしたことではありませんでした。このような言葉、特に、社会的な一致を求めるために、人間の体と、社会の集団を比較、類比して語ることは、古代の社会において決まり文句的なものでもあったのです。パウロにとっても、この言葉を聞くコリントの人たちにとっても、この言葉は常識的な言葉であったでしょう。人間の体を使い比喩的に語るパウロの言葉は、このコリントの教会の人々にとって、「一致する」という意味では、常識的なことであったのです。しかし、この人間の体を使った比喩を古代の社会では、一般的には、パウロが語ったようには使われていなかった。パウロの使い方は、これまでの一般的な、比喩の使い方、一般的「体としての一致」とは違ったものであったのです。

 当時の社会における「体としての一致」とは、支配者が、その権力に従うように、体にたとえて使われていたのです。「体には頭があるように、手があり、足がある。」つまり、上位階級があれば、下位の階級もある。そのどれも大切だと。社会において、下位の階級、下に属する人々がいることも、社会の一致に必要であると、そのように「体による一致」という言葉は使われていたのです。当時「人間の体をモチーフに一致しなさい」と語っていたのは、権力者です。この時の権力者とは、ローマ帝国ですが、ローマ帝国が、ローマの市民に向けて、自分たちに従うように、いろいろな身分の者がいるが、それらすべてがローマ帝国を支えていると、語った言葉であった。だからローマの権力社会に従うように。体の部分として、権力に従いなさいと語った。それが一般的な使い方、常識的な使い方であったのです。

 

 

 今日の箇所はこの常識を覆した言葉でありました。強き者が、弱き者を従わせるために、使っていた言葉をもって、むしろ、そうではなく弱さを尊ぶように語ったのです。Ⅰコリント12:22-26ですが、今日は、本田哲郎さんという、大阪、釜が崎において、日雇い労働者の方のために、働かれている、神父さんが、訳された聖書から、このⅠコリント12:22-26を、お読みしたいと思います。「それどころか、体で『いちばん貧弱』と見なされている部分が、大事なのです。わたしたちは、体の部分で『たいしたことない』と思ってしまうところを、なによりも尊重するようにします。それで、わたしたちが『目ざわりだ』としていた部分がよりすぐれた調和をもたらすようになるわけです。調和がとれている部分にはそうする必要はありません。

 神は、『不足がちのところ』をなによりも尊重すべきものとして、体を組み立てられました。それで体に分裂がなくなり、各部分が互いに配慮しあうようになるのです。こうして一つの部分が苦しむなら、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分がほまれをうけるならすべての部分がともに喜ぶようになるのです。」

 

聖書は「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」(23)と語ります。先ほどの訳で言えば、「『いちばん貧弱』と見なされている部分が、大事なのです。」と、語るのです。教会が一つとされること。キリストの体としての、教会がつながっていくことは、一番貧弱な部分が大切とされ、なによりも尊重されることによって、調和がもたらされると教えているのです。目ざわりとされるところが、切り捨てられて、弱さとされるところは、「教会の一部としていらない」と言われることではないのです。そうではなく、弱い者、「不足がちのところ」が尊重され、その中によって、教会が一つとされるようにと教えられるのです。

 

このときのコリントの教会の人々は、自分たちが弱い者であるとは、思ってもいなかったのでしょう。自分ではなく、教会の兄弟姉妹に対して「お前はいらない」「お前は欠点がある」と言っていたのです。相手の欠点を見つけては、その弱さや欠点を見つけては、その人は、じぶんより弱い者と考えたのです。他者との比較により、あの人たちよりは、自分はよくできていると考えていた。自分の中で基準を勝手に作り、勝手に自分だけが正しく、弱い者ではないと、勘違いしていたのです。そのような人々に向けて「『いちばん貧弱』と見なされている部分が、大事なのです。」と語られます。「弱さを尊重することによる、調和を、そしてキリストの体としてつながることを目指しなさいと」語るのです。そしてそれはまた、誰か弱い人、誰か小さい人、誰か貧弱とされる人を見つけ出して、尊重することだけに留まるものではないのでしょう。

この聖書の御言葉は、まさに、私たちの自分自身の中にある、弱い部分、小さい部分、貧弱な部分をも指しているのです。私たちが、そのお互いの弱さや欠点を受け入れ、尊重することは、自分自身の弱さや欠点を受け入れることを求めた言葉でもあるのです。人間は誰にでも、欠点があります。どこかしらに欠けがあるでしょう。神様はその弱さによって自分を否定するのではなく、そのような弱さこそが大切であると、弱さや欠点は、神様の前にあって、大切なのだと教えているのです。

4:  一番貧弱な者となられた方

そして、私たちがお互いに受け入れあう、違いを尊重するために、お互いの弱さを受け入れあうためにこそ、イエス・キリストは、この世に来てくださったのです。イエス・キリストは、一番小さい者、貧弱な者、弱い者、そして切り捨てられる者となられたのでした。私たちが「主」と告白する、イエス・キリストは、十字架の上で、この世においていらないものとして捨てられ、殺されました。小さく、貧弱であり、この世的価値観において、いらないものとして捨てられたのです。

この十字架の出来事は、私たちに、自分の弱さ、そして他者の弱さと向き合う力を与えます。私たちの弱さ、私たちの欠点、そのすべてをイエス・キリストは十字架の上で受け止められたのです。イエス・キリストが、まず、私たちのことを受け止めてくださっているのです。だからこそ私たちは、主イエスとつながり共に歩む中で、お互いの弱さに、また自分の弱さに、目を向けていくことができるのでしょう。イエス・キリストが共にいなければ、私たちは、到底自分の欠点と向き合い、見つめ、受け入れることはできないでしょう。そして、お互いの欠点、その違いを理解する者とはなることはできないでしょう。私たちは自分ひとりでは、自分の弱さ、小ささを受け止めることはできない、そしてお互いの違いを理解する者となることはできないでしょう。

そのような、私たちの弱さをまず受け止めて、そして、共に歩み支えてくださっているイエス・キリストがおられる。わたしたちは、どれほど弱くても、孤独ではない。どれほど小さく、貧弱な者でも、キリストはつながっているのです。私たちは見捨てられることはありません。私たちは、この主イエスに支えられてこそ、この恵みを受け取ってこそ、お互いの弱さ、お互いの小ささを尊重することができるのです。

5:  イエスは主である

私たちには、主イエス・キリストの十字架からの恵みが与えられています。「弱さこそ強い」という恵みです。この価値観の変換、弱さを強さとする価値観に導く方が、聖霊です。私たちは、聖霊の働きによって「イエスは主である」と告白する者として生きる道が開かれているのです。私たちが、一つとされていく。お互いが弱さを持つなかで、一つの指針、一つのアイデンティティの中で生きることを、聖霊が導くのです。

「イエスは主である」という告白。これは決して自分を主としない、自らを一番にしない、自分を絶対化しないということです。自分の正しさ、自分の正当性、それがすべてではない。むしろそこには間違えがあり、その価値観で人を裁くことはできない。そのことを認めた言葉が「イエスは主である」という言葉です。自分を絶対化しないことは他者の思いを尊重することにつながるでしょう。「イエスは主である」。それは、自分がイエス様に支えられて生きていることを告白した言葉です。

「イエスは主である」。この言葉は、まさにお互いの弱さを尊重するための告白でしょう。この世において一番小さく、弱く、貧弱とされた主イエスを「主」とするのです。そのイエスの死は、神様が命を投げ出して、私たちのために新しい道を整えてくださった出来事であるということを告白する言葉なのです。私たちは「イエスは主である」という言葉を告白する中でこそ、お互いの弱さを受け入れること、違いを尊重することができるのです。私たちは、主イエス・キリストによって支えられている恵みを喜んで受け取り、お互いの弱さを、その違いを、尊重する者とされていきたいと思います。私たちのことをイエス・キリストは、受け止めてくださった。私たちのために、その弱さ、その欠点の中心にきてくださったのです。私たちのことを、主は喜んで、受け入れてくださるのです。私たちは、この恵みを受け取りましょう。そして、その恵みに与る中で、主と共に、また兄弟姉妹と共に歩みだしていきたいと思います。