特別集会

 

 

幼稚園集会

 願書受付

11月1日(水)から

入園・未就園児クラス

申し込み

随時受け付けています

バプテスト東福岡教会

福岡市東区馬出4-13-15

TEL:092-651-3978

     092-651-6270 


アクセスカウンター カウンターカフェ

2016.3.27 「復活~生きる希望~」(全文) ヨハネによる福音書20:11-18(イースター)

 皆さん、イースターおめでとうございます。今日、皆さんと共に、イエス・キリストの復活の喜びを、分かち合い、お祝いすることができることを感謝いたします。今日は、イエス・キリストの復活をお祝いする復活祭・イースターです。このイースターの日に、私たちは、イエス・キリストの復活の意味について、共に御言葉から学んでいきたいと思います。

 

1:  復活とは

 復活というものが、どのようなものであるかということ。このことは、科学が発達した現代社会において、わかりにくいというよりも、わたしたちはすでに理解しようとしていない、わかろうとはしないものとなっているのではないでしょうか。イエス・キリストがよみがえられたといっても、私たちは、実際にこの復活をどのように受け取っているのでしょうか。

 復活という事柄は、私たち人間の思いを越えた出来事です。イエス・キリストの復活は、ただこの世における、私たちの肉体の命が、再び取り戻されていくことを意味するものではないのです。 聖書において、イエス様の御業によって生き返らされていった人々がいます。

 会堂長ヤイロの娘や、マルタとマリアの兄弟ラザロも、イエス様によって生き返らされていきました。しかし、彼らは、この地上で、永遠に生きる者とされていったというわけではないのです。彼らもやがて、また、時が過ぎると、再び、肉体的の死を迎えていったのです。そのような意味では、ヤイロの娘も、ラザロもよみがえったというよりも、死を迎える時期が少しだけ延びたに過ぎないのです。イエス・キリストの復活は、そのようなものとは、まったく違うものなのであります。

 

2:  イエス・キリストを必要とする

 今日の箇所は、11節からですが、まず20章の1節から読んでみますと・・・その日の朝、マグダラのマリアは墓に出掛けていきました。ヨハネによる福音書では、マグダラのマリアが墓に出掛けていき、そこで墓をふさいでいた石が取り除いてあるのを見つけるのです。彼女はとっさに男の弟子たちを呼びに行きます。すると、ペトロと、もう一人の弟子が墓へとやってきました。中に入ってみると、そこには、イエス様を包んでいた、亜麻布と、離れたところに、頭の覆いが置いてあるだけでした。そして、このことを見たこの弟子たちは、家へと帰っていくのです。

 この弟子たちは、なぜ墓をそのままにして、家へと帰っていったのでしょうか。それは、9節に「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」と記されているように、彼らはまだ復活を理解していなかったからでした。それはまた、ただ理解をしていないだけではなく、彼らが復活を、まだ、必要としていなかったのではないでしょうか。このことを言い換えるならば、彼らは、まだ、イエス・キリストによる、新しい生きる道、新しい生きる希望を必要としていなかったのです。

 この後、今日の箇所となります、11節からの箇所において、弟子たちが帰っていった後に、一人残されたマグダラのマリアは墓の外に立って、泣いていたのです。マグダラのマリアという人物は、イエス様によって7つの悪霊を追い出していただいた女性でした。彼女は、イエス・キリストを本当に、必要とし、イエス・キリストを求めていたのです。そのような思いが、彼女を墓に留まらせ、泣き続けさせていたのではないでしょうか。

 このマグダラのマリアのように、本当にイエス様を必要とすること、イエス・キリストに希望をみることを、私たちは、いつの間にか忘れてしまっているのではないでしょうか。この時、家に帰っていった弟子たちもまた、いつの間にか、イエス様を必要とすることを忘れてしまっていたのではないでしょうか。弟子たちが考えていたことは、復活などという理解を越えた出来事よりも、今、この状況、イエス様の遺体がなくなったという、大変な状況をどうするかということを考えていたのではないでしょうか。

 

 イエス様は死なれた。十字架の上で、「ユダヤの王」とされて殺されてしまった。この大変な状況に、泣いてなんかいられない。自分たちは殺されないようにどうすればよいのだろうか。またイエス様の遺体を自分たちが盗んだと言われないために、どのような対策を練るべきか。そのようにして、自分たちの心の中にいつの間にか、イエス様を必要としていない、弟子たちがいたのでありました。私たちもまた、このように、何か計画を推し進めていこうとするとき、いつしか、その計画の重さ、重大さに押しつぶされ、イエス様を必要とすることを忘れてしまってはいないでしょうか。そのような時があるのではないでしょうか。そのような、私たちには、時として、マグダラのマリアのように、すべてを忘れて、泣き続け、立ち尽くすことが必要とされているのです。彼女はこの時、心の底からイエス・キリストを必要としていたのです。

 

 このことを、ある神学者は、このように記しています。「マリアは弟子たちとは違ったことを欲している。彼女は、イエスの死という事実について、弟子たち以上に苦しんでいる。彼女は、遺体が見つからないということをあきらめきれなかった。この痛みが、彼女にもたらされる知らせに対する準備となった」。イエス・キリストは目の前の困難な現実に立ち尽くし、泣き続けることしかできない者、自分の無力さの中に立ち尽くす者の傍らに来てくださるのです。

 

3:  マリアの求めたもの

 そのようにして、泣きながら、墓の中を見た、マグダラのマリアは、そこに、二人の天使がいるのを見つけるのです。天使が「婦人よ、なぜ泣いているのか」(13)と尋ねると、マリアは「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」(14)と答えるのです。この言葉から見てわかりますように、彼女もまた、復活を理解していたのではありません。この時、マグダラのマリアが探していたのは、イエス・キリストの命ではなく、イエス様の遺体であり、消えてしまった、その身体でありました。

 

 本来、彼女が必要としていたのは、このイエス様の遺体でも、消えてしまった、その身体でもなかったはずです。そうではなく、かつて与えられたイエス・キリストによる命であったはずなのです。マグダラのマリアは、イエス・キリストによって、本当の命を与えられたのです。それは、肉体的にただ生きているということではなく、イエス・キリストとの出会い、そして交わりの中で、癒され、生きる力と勇気と希望を与えられたということでした。マグダラのマリアは、イエス様と出会い、新たに自分の命を見出していったのです。

 しかし、この命を与えてくださった、イエス・キリストが十字架の上で死なれ、墓へと葬られていってしまった。そして、今度はその遺体も消えてしまった。せめて、この遺体でも見つかったなら・・・とマグダラのマリアはそのように思ったのです。ですので、14節において、後ろを振り向いても、それがイエス様であると気がつかなかったのです。この時、マグダラのマリアは、生きているイエス・キリストではなく、イエス様の遺体を探していました。ここにある、「後ろを振り向く」という言葉の表現も、とても象徴的な表現でしょう。マグダラのマリアは、イエス・キリストによって命を見出していったにもかかわらず、ここで今また、後ろ振り向いた。後ろに目を向けた。つまり、見出したキリストの命から目をそらし、後ろを向いて本当の命から離れていこうとしていたのでありました。

 

 このマリアにイエス様が、「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」(15)と尋ねるのです。「だれを探しているのか」というイエス様の言葉は、「もう死んでいる私ではなく、生きている私、生きているイエス・キリストを見なさい」と語っておられるイエス様の言葉なのです。しかし、このイエス様の言葉に対して、なお、マリアは、イエス様を認めていくことができないのです。

 「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」(15)マグダラのマリアの心は、すでに後ろへと向いてしまった。つまりイエス・キリストから離れ、イエス・キリストの言葉を、聞くこともできない状態へと陥ってしまっていたのでした。マリアの心は、イエス・キリストの十字架という出来事、そして遺体が消えてしまうという出来事によって、固まってしまっていたのです。

 

4:  呼びかける方

 ここで、イエス様は、彼女に対して、「マリア」と呼ばれます。イエス様のマリアに対する、呼びかけです。この呼びかけは、「マリアよ、あなたが私の遺体を引き取るのではない。私が、このようにして生きている私が、あなたを引き受けるのだ。」と語りかけているのです。このイエス様の呼びかけによって、マリアは、死んだイエス様ではなく、もう一度生きておられるイエス様、命なる方に目を向けていくのです。

 この呼びかけによって、彼女は、今一度、イエス・キリストによる命の出来事を受け、再び生きているという意味を与えられていくのです。マグダラのマリアは、再びイエス・キリストによって、癒され、生きる力を与えられていった。再び生きる希望、新しい命を与えられたのであります。マグダラのマリアに向かって、イエス様は、「わたしにすがりつくのはよしなさい。」(17)と語られます。この言葉には、いくつかの意味を見ることができます。まず、天の父なる神様のもとへと上って行かれようとするイエス様を、引き止めることに対する禁止の言葉として受け取ることができます。マグダラのマリアとイエス様との関係が、今後、触れることが出来なくても、また、見ることができなくなったとしても、イエス・キリストからその命をいただき続けることができる。その信仰への導きであります。すがり続けることを止めさせるということは、「見ないで信じる」という信仰への導きです。

 そしてさらに、すがり続けることを止めさせること、このことの一番大きな意味としてあるのは、マリア自身に新しい一歩を踏み出しなさいという意味として語られているのです。マグダラのマリアは、弟子たちのもとへと行って、「わたしは主を見ました」(18)と告げていきます。それは、単に、イエス・キリストが死からよみがえられたという報告なのではなく、彼女自身が再びよみがえられた、イエス・キリストに出会い、生きる力を与えられた、希望を受け入れた者の姿であり、そのように、新たに命が与えられたことを告げ知らせるという出来事であったのです。

 

 このマグダラのマリアが告げ知らせるイエス・キリスト。復活のイエスは、今も生きて、私たち一人一人の名前を呼びかけていて下さっているのです。それは、かつて生きておられたイエス様ではなく、死より、よみがえり、今も生きて、働いておられるイエス・キリストです。生きて働かれる、イエス・キリストは、立ち尽くし、泣き続けるしかない、私たちの傍らに立ち、命を与えてくださるのです。生きる力と勇気を与えてくださるのです。イエス・キリストは「生きよ」と、私たち一人一人に、語っていてくださっているのです。

 そして、この復活のイエス様が、私たちに「すがりつくのはよしなさい」とも語られている。それは、目で見ること、手で触れることの出来ない、それでも生きる力を与える方イエス・キリストを信じて一歩を踏み出さいという言葉です。私たちにも、マグダラのマリアのように、「ここから出て行って、イエス・キリストを告げ知らせるようにと」「生きるという喜びを伝えていきなさい」と、語られているのです。

 

 私たちは、このイエス・キリストの言葉をしっかりと受け取りましょう。かつて生きておられたイエス様ではなく、死よりよみがえり、今も生きて、働かれておられる復活のイエス・キリストを、命の神を告げ知らせる者とされていきたいと思います。