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2016.3.13 「わたしは給仕する者である」(全文) ルカによる福音書22:24-30

 私たちの主イエス・キリストの苦難と十字架での死を覚え、心に刻む受難節(レント)の時を迎えています。来週はいよいよ受難週に入ります。このような日々、どのようなみ言葉を取り次ごうかと準備していました。ここ数週間、E. シュヴァイツァーという神学者の「新約聖書の教会の奉仕(ディアコニー)的構造」というドイツ語の文献を読んでいます。その中で、イエス様が「わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である」と語った言葉について解説する箇所がありました。後ほど引用しようと思いますが、思わずその文章に感激して涙を流してしまいました。ちょっと精神的に疲れており、傷付きやすくなっているのかも知れません。しかし、春休み、大学の研究室で、一人でコツコツと勉強しているのは素敵なことです。誰も見ていないので、泣いても恥ずかしくないのです。

 ということで、ルカ22:27の「しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である」という言葉に注目して聖書を読んでみましょう。

 

1.給仕すること、給仕されること

 「給仕する者」には、教会で「執事」と呼ばれている「ディアコノス」に近い形の言葉が用いられています。サーヴィス(おもてなし)を提供する、あるいはウェイター・ウェイトレスですね。ウエイターとは食卓の傍らで「待つ者」で、席に座っている客をもてなすために「待ち構えている人」です。主イエスは、「食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか?」と弟子たちに問いかけます。皆さんはどう応えますか?

 年に一度でも良いから、あるいは一生に一度でも良いからミシュランの3星レストランで食事をしたという方もあるでしょうね。悪いことではありません。

 しかし、貧乏性の人にはちょっと窮屈かも知れません。ナイフ・フォークがいくつも並んでいて、どこから、どう使って良いか分からない、テーブル・マナーなど知らないという方もおられるでしょう。

 

ナイフやフィークを床に落としたら決して自分で拾ってはいけません。ウエイターを呼んで、取ってもらい、新しいものと替えてもらうわけです。でも、これ、偉そうでちょっと嫌ですね。あるいは、ナプキンで口を吹きにくい。私は、どうしても後で、「洗濯が大変だろうなあ」と思ってしまう。それでも、そのような汚れ役をしてくれる人がおり、その仕事を奪ってはいけないのです。ある意味で「仕える人」「給仕する人」のサーヴィスを受けるためには、謙虚でなくてはならないのかも知れません。また、「仕える人」「給仕する人」も仕事に誇りをもって卑屈になる必要もないのでしょう。にもかかわらず、「食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか?」と聞かれれば、「食事の席に着く人ではないか」ということになります。それが世間の常識でしょう。

 

2.この会話の文脈:全くの孤独の中で

 では、このような主イエス様と弟子たちの会話がどのような流れの中でなされたかを考えてみましょう。この場面の直前には、いわゆる「最後の晩餐」が描かれています。最後の晩餐と言えば、主イエスが弟子たちに裏切られ、民衆に捨てられ、律法学者やファリサイ人に蔑まれ、十字架で殺される前の晩のできごとです。最後の晩餐では、「ご自分のいのちを弟子たちのために与えると」言われました。

 そして、この場面の直後には、ペトロの裏切りの予告が語られます。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。…今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」(3134)と言われます。ご自分のいのちを与えると言われているのに、弟子たちは、自分たちの間で「だれがいちばん偉いのだろうか」と議論していたというのです。なんと間の抜けた弟子たちなのでしょう。まあしかし、エルサレムでイエス様が王として即位され、ローマ帝国と戦い、勝利したあかつきには、だれがイエスの右と左に座るのか?ということで、あながち彼らの興味は場違いではなかったのかも知れません。そして、人と比較して人より偉くなること、「名誉心・栄誉心」は人の心を支配し、思い上がらせたり、落ち込んだりさせるものなのです。この誘惑から人はなかなか自由であることはできないのです。イエス様は孤独です。弟子たちはイエス様を全く理解していない。一緒にはいるけれど全く異なった考え方をしているのです。そして、ペトロは、三度イエスを知らないと拒絶することになることを主イエスはすでにご存知なのです。

 

3.「しかし」:価値観、生き方の転換

 世間では、「王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている」のです。権力を持つ者は支配欲から自由であることは難しいものです。おかしなもので、民衆は権力者を有難がるらしいのです。まさに、「抑圧者」が「守護者」と呼ばれているのです。E.フロムという社会学者は『自由からの逃走』という本を書きました。なぜドイツにナチズムが起こり、600万人のユダヤ人が殺され、てんかんを含めて精神病の人たち、身体障害者たち、同性愛者たちが殺戮されたのか?フロムはこの問いに対して、人間は自由であることに耐えられずに、自分で自分のことを決定する自由に耐えられずに、だれかに服従したいという精神の傾向を持っているのではないかと考えたのです。「王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている」また、「食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか?」と聞かれれば、「食事の席に着く人ではないか」と世間は答えます。しかし、主イエスは、26節で、「しかし」あなたがたはそうではいけない」と言われ、27節の真ん中で、「しかし」、「わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である」と言って価値観の逆転、生き方の逆転を語っています。わたしたちは今朝この「しかし」の呼びかけに耳を傾けたいのです。

 

4.主イエス:給仕する者である!

 ここで注目すべきことは、「みなさん、人に仕える者になりましょう!」ということではありません。私はそんな呼びかけに涙を流したわけではないのです。「耐え忍びの奉仕」という題のE. シュヴァイツァーの言葉に耳を傾けてみましょう。

 「どのようにしてイエスは『奉仕する者』、『執事』であるのか?ということがいまや、明白に、最も興味深いことである。確かに、最後の晩餐のコンテキストにおける絵画では、イエスを彼の弟子たちの傍らに横たわらせる。しかし、イエスは一体何をするのだろうか?彼は何もしない。いずれにせよ、彼が彼の弟子たちに給仕の具体的な奉仕を実行することについては何も語られていない。彼はあたかもある食卓の車座の座布団の上で、「臨終の床にある」(in der lezten Zuegen liegt)かのように、あからさまに語るのである。日没と共にすでに彼の死の日が始まっていた。彼の働きは終わりに差しかかっている。彼はもはや何もできない。彼はこの日をただ終わりまで耐えることができるのみである。彼は最も極端なものに挑んでいる。彼がいまだなしえる唯一のことは、彼の弟子たちに幾つかの言葉を語るだけである。そしてまたその言葉が即座に終わりへと導く。しかしまさにこの状況が、非常に印象深いかたちの発言を与える。イエスはまさにそれによって彼の弟子たちに最大の奉仕をしており、神が彼に負わせた奉仕を彼はただ耐え忍ぶことだけであった。

 27節前半このことを目に見える形で展開している。2つの問いがもういちど、イエスは今や、彼は奉仕する者に過ぎないのであり、決して、「より偉大なもの」などではないことが確認される。イエスは彼の実存を通して、以前のあらゆる価値あるものを根本的に彼の反対の仕方でひっくり返す。ここに決定的なお方が存在するのである。権力を持つのではなく、単に良いことを行って名声を得ようとするのでもない。ただ無力な者、そしてあらゆるものから嘲られて死ぬことができるお方なのである」。

 

 主イエスは2度目の「しかし」の後に、「しかし、あなたがたの間ではそれではいけない。給仕する者こそ偉いのである」などというお説教をせずに、「しかし、わたしはあなたがたの中で、給仕する者としてここにいる」と言われたのでした。こうして、わたしたちが何かの奉仕をする以前に、イエス様ご自身が私たちに奉仕して下さり、私たちの足を洗って下さり、ヨハネ福音書によれば、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」(13:8)ということなのです。最も謙虚な生き方は、イエス様の前に汚れた自分の足を投げ出すことなのです。そして、このことができるときに、他者に仕えるささやかな奉仕をさせていただけるのです。

 

5.奇妙なつけたし? 28~30節

 28節以下は奇妙なつけたしのような響きがします。「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒にとどまってくれた」。冗談でしょうか?最高の嫌味でしょうか?一番大事な夜に「だれが偉いか」などと議論していた弟子たち。一番大事な夜になんと主イエスを三度拒絶したペトロ。仕様もない弟子たちです。この夜、決して乗り越えることのできない深い淵が神と人、主イエスと弟子たちの間に横たわっています。人はこの深淵を飛び越えることはできません。しかし、弟子たちは、ここまでは何はともあれ、主イエスに従ってきた。主は、弟子たち、そして皆さんがなす、いと小さき者にした小さな奉仕を喜んで下さるのです。そして大きな祝宴では、神と共に喜び、食卓の席に座る側に回ると約束して下さるのです。ローマ教会の主教であったクレメンスの手紙I・5:4(95年頃)によれば、ペトロは紀元64年~67年、皇帝の迫害によってローマで殉教したと言われています。世の終わりの祝宴の席に座っているペトロはどのような顔つきをしているのでしょうか。主イエスを三度知らないと言ったゆえにちょっと俯いているのでしょうか。あるいは、主イエスの十字架と復活後、殉教するまで信仰を貫いたゆえに晴れがましい顔をしているでしょうか。いずれにもせよ、ペトロは主が、「給仕する者」として彼らの間にいて下さったこの晩のイエス様のことを思い起こしているでしょう。