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2016.2.21 「主イエスは見ておられる」(全文) マルコによる福音書12:41-44

 NHKの朝の連続ドラマで「あさが来た」というのをやっています。白岡あさという女性が主人公です。実際は広岡浅子という名で京都の三井家の出身で、明治初期の女性実業家で日本女子大学の創立にも関わり、60歳過ぎて病気をし、キリスト者となったようです。彼女がキリスト者となったことは「ビックリ・ポン」ですが、なんとなくうなずけます。目標めざしてまっしぐらに進むところが痛快です。新教出版社から『人を恐れず、天を仰いで』という本がキリスト者となった浅子が書いたものとして出版されています。聖書にもビックリ・ポンな女性が登場します。先ほど読んでいただいた聖書に登場する貧しいやもめです。彼女は人と比較して落ち込むようなことなく、天を仰いで彼女の「生活費を全部」(43節)神に捧げたのです。

 スチュワードシップ(神に仕える僕の道)ということで、先回は神様から解放された自由人の証しとして神をまず礼拝すること、イエス様のそばにいることに触れました。今日は献金することについて共に考えてみました。与えられたものの一部を神と他者のために、感謝をもって「手離す」ことは素敵なことではないでしょうか。

 

1.教会の教え:「十分の一」献金

 今朝はいわゆる「十分の一」献金について考えてみましょう。私が青年の頃バプテスマを受けクリスチャンになった時に、牧師から毎月、全収入の十分の一を捧げるように勧められ、50年間そうしてきました。それで不自由なことは一度もありませんでした。とは言ってもギリギリの生活ではありました。名古屋の瑞穂教会の牧師時代に良く夫婦喧嘩をしましたが、「なぜ、あの時夫婦喧嘩をしたのだろう」と家内に聞きますと、「お金がなかったから」と言われて絶句したことがあります。お金がギリギリだと心まで貧しくなりがちなのでしょう。私はといえば、東京から乗った新幹線の中でお腹が空いたのですが、手持ちは250円くらいしかありません。「そのサンドイッチいくらですか?」と聞いたら、サンドイッチを差し出して、「380円です」といわれ、「いやただ値段を聞いただけです」と応えた時には惨めで、悲しくてちょっとこたえました。そんなことで、いろいろありましたが、まあ、それでも十分の一献金をして、不自由なことはなかったと言ってよいでしょう。確かに、旧約聖書には、当時の宗教的・祭司制度を支えるため、生産物の十分の一を神に捧げるように命じられています。民数記18:24には「わたしはイスラエルの人々が供え物として主にささげる十分の一を、レビ人に嗣業として与えた」と言われています。捧げられたものは神殿で働くレビ人に与えられたわけです。マラキ3:10には「十分の一の献げ物すべて倉に運び、わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと、万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐであろう。」とあります。戦いに負けて、捕虜生活から帰ってきたイスラエルの民は、自分の生活が苦しくて、神殿を再建することが困難でした。「神様どころではない」というのですが、生活はますます苦しくなるばかりでした。精神的余裕もなくなってしまったのです。そこで、預言者は「貧しい中からまず神様を第一にしよう。そうすれば人の心も喜びで溢れ、働く意欲も沸き、祝福された生活がもう一度戻ってくる」と民に勧めたわけです。こうして、旧約聖書においては、当時の宗教的・祭司的制度を支えるため、さらに、イスラエル社会の寄留の他国人、孤児、やもめなど貧しい人たちを養うために全収入の十分の一が捧げられていたようです。

 では、新約聖書において、この十分の一の捧げ物の習慣はどうなったのでしょうか。マタイ23:23には、律法主義を批判した主イエスが十分の一献金について「それもしなければならないが」と少々歯切れの悪い仕方で語られています。旧約聖書の宗教的制度から離れ、いまだはっきりした教会制度が確立しておらず、有給の牧師という職務を立てていない新約聖書では、日曜日の礼拝毎に捧げ物をして、エルサレムの貧しい教会員や孤児、やもめたちの生活を支えていたようです。そのような意味で、新約聖書においは、収入の十分の一の献金が教会の決まりとして明確に命じられているとは言えないだろうと思います。

 

2.すべては神から与えられ、すべでは神のものである

 それでは、新約聖書において、明確に命じられていることはどんなことでしょうか。明確なことは、私たちの人格を含めたすべてのものが神のものであり、主イエスは命を懸けて私たちを愛して下さったことです。十字架にかけられ、そのいのちをもって私たちを愛して下さったお方に対して、十分の十、私たち「すべて」を捧げて生きることです。

 主イエスは、エルサレム神殿の庭に据付られていた献金箱に向かって座り、人々が献金するのを見ておられました。そこにはラッパ状の器が全部で13個並んでいたと言われています。金属製でしたので、その音で誰がいくら位入れたか分かるようになっていたのでしょう。多くの裕福な者が沢山のお金を投げ入れました。ところがひとりの貧しいやもめがきて、レプトン銅貨二枚を入れました。レプトンはギリシャの最も小さくて薄い貨幣です。日本で言えば、10円玉2つというところでしょう。すると、イエス様は、このやもめの信仰を喜ばれ、この信仰を讃えたのです。今朝はこの物語から2つのことを考えたいのです。

 

3.主は見ていて下さる

 第一に、「主は見ていて下さる」ということです。当時、やもめは貧しい境遇でした。自分を支えてくれる後ろ盾である夫に死に別れていたので、あるいは離婚していてギリギリの生活をしていたのでした。彼女たちは社会的に、ほとんどその存在価値を認められていなかったのです。まさに居場所のない、肩身の狭い存在でした。随分前ですが、水上勉という作家の書いたものを「婦人の友」という雑誌で読んだことがあります。彼は若狭の貧しい宮大工の息子に生まれました。宮大工と言っても実は棺おけなどを細々と造って、その日を食いつないでいました。家は、冷たい風が吹き抜ける隙間だらけの掘っ立て小屋でした。それでも水上はそんな父を尊敬していたと語っています。さて、ある日、小学校の先生の家庭訪問があったそうです。母親はなけなしのお金で、わずかな駄菓子を買い、先生を接待したのです。物陰から勉少年は見ていたのでしょう。おそらく彼はそんなお菓子を食べたこともなかったのでしょう。ところが、先生はお菓子に手をつけなかったのです。そこで母親は先生の帰り際、新聞紙か何かでその粗末なお菓子を包んで、先生に手渡したのでした。私の子ども時代はそんなおひねりのお菓子をもらったものです。少年の水上はそっと先生の後をつけて行ったそうです。先生は少し行った角の草むらにそのお菓子を投げ捨てたそうです。それだけの話です。私もある意味で教師のような生活をしてきましたので、お茶の接待も所々で受けるものですから、人の心を傷つけるような行動をしないように身を詰まされた話です。この先生も、私たちも、しばしば、余りに粗末な駄菓子だけを見て、あるいは、貧しいレプトン2枚だけを見て、その背後にある母親の想い、そして水上勉少年の想い、棺おけをほそぼそと造っている父親の想い、そして、貧しいやもめの想いを見る感受性を持っていないのです。しかし、主イエスはこのやもめをしっかりと見ておられ、心動かされておられるのです。ここで「見る」と翻訳された言葉は、theoreinという言葉です。ただ単に目で見ているというより、知覚する、気が付く、識別するという意味です。イエス様は、このやもめの人格全体を受け留め、その背後にある想いを見極めて下さったのです。主イエスが「見ておられる」とは何と慰めに満ちた言葉でしょうか。

 しかし、主イエスが「見ていて下さる」とは、同時になんと恐るべきことでしょうか。ルカ福音書18:9~14には、自分を義人だと自認して、他人を見下げている人たちに対して語られた主イエスの譬が描かれています。「二人の人が祈るために宮に上った。その一人はファリサイ派の人で、もう一人は取税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通をする者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一を献げています』。ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともしないで、胸を打ちながら言った『神様、罪人のわたしを憐れんでください』と。言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。」ここで、十分の一献金が登場します。神への感謝のない、砕かれた心のない十分の一献金があるとは恐るべきことではないでしょうか。主イエスが見ておられる、とは慰めに満ちたことでもあり、また、こうして恐るべきことでもあります。

 

4.痛みの中から

 それではここで第二の点に移りましょう。金持ちは「有り余る中から」献金し、やもめは「乏しい中から」献金したというのです。裕福な人たちは沢山のお金を献金しました。しかしそれは「有り余る中から」でした。「必要の限度を超えた、超過した余分の中から」ということでしょいうか。彼らはこの献金で、生活そのもの、生き方そのものを問われはしなかったのです。しかし、このやもめは欠乏の極みの中から献金をしたのです。彼女は、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたのです。ここで彼女の「生活費」という処で、「バイオ」という表現が用いられています。バイオリズムのバイオ、ソニーのパソコンの「バイオ」です。それは生活費であり、「生活」であり、あるいは「いのち」そのものでした。彼女はこのことを通して、私たちの人生を支えておられるのは神であるということを告白し、神の憐れみの中に自分自身を委ねたのです。それはまさに彼女の生き方を根本から問うものでした。わたしたちは痛みのある献金、自分の生き方を問われるだけの献金をしましょう。

 私たちは4月から新年度を迎えます。是非、収入の十分の一を捧げたいものです。しかし、レプトン銅貨2枚を捧げたやもめの献金に感動する心をいつも失わない教会でありたいと思います。たとえ、十分の一の献金ができなくても、最善を尽くしていれば、その人はうな垂れることがない、そういう教会でありたいと思います。東福岡教会はレプトン2つのやもめの献金に心揺さぶられる教会でありたいものです。そのように一人の人間を大切にしたいのです。しかし、献金は小銭でいいのだと開き直らずに、最善を尽くす。しかも他者を審かない、そんな教会でありたいと思います。たとい全収入十分の一を捧げても、赦されている罪人に過ぎないのだという自覚が生き生きした信仰者の群れでありたいと祈ります。「イエスは見ておられた」。こんなイエス様に「ビックリ・ポン」を感じる、レプトン銅貨2枚を捧げたビックリ・ポンな女性たち、男性たちの教会であったら素晴らしいと思います。「イエスは見ておられた」。なんと畏れに満ちた言葉でしょうか。