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2016.1.24 「呪いから祝福へ」 マルコによる福音書14:10ー21 (全文)

1:  過ぎ越しの食事

 今日の箇所で、イエス様は二人の弟子を使いに出して、都であるエルサレムでの過ぎ越しの食事の準備をさせます。この過ぎ越しの時、ここでは「除酵祭の第一の日」となっていますが、もともとは過ぎ越しの犠牲を捧げる時、小羊を屠り、神様に捧げるときは「除酵祭の第一の日」ではなく、その前夜とされていました。この過ぎ越しの時と除酵祭について、少し説明をしたいと思います。

 過ぎ越しの時、いわゆる「過越祭」はユダヤの三大祭りの一つで、それは出エジプトの時、イスラエルがエジプトにおいて奴隷とされていたときに、モーセによって、エジプトを脱出した時に由来します。神様は、イスラエルの救いのために、エジプト全体の長子と家畜の初子をうち滅ぼされたのでした。そのときに、神様がイスラエルの家を過ぎこされたことに基づいた名称として「過越祭」とされます。神様は、このエジプトでの出来事の時、天幕の柱に、犠牲の動物の血を塗り付けたイスラエルの民の家を、過ぎこされ、エジプトの全体の長子と初子をうち滅ぼした中で、イスラエルの民をうち滅ぼすことはなされなかった。過ぎこされたのです。

 この出来事を通して、イスラエルの民は、エジプトから脱出することになったのです。このことからイスラエルでは、「過ぎ越しの祭り」、「過越祭」がおこなわれるようになったのです。「過越祭」は、イスラエルの民にとっては奴隷からの脱出の時であり、救いの時でした。動物の犠牲、その血を柱に塗ることによって、イスラエルの民は救い出されたのです。この出来事から、イスラエルでは、民族の解放と救いを祝う時とされ、その時に、動物の犠牲を神様に捧げたのでした。これが「過越祭」です。

 そして「除酵祭」は、この「過越祭」に続く7日間のお祭りで、エジプトからの脱出を祝い、パン種をいれないパンをつくったのでした。エジプトからの脱出のとき、ぐずぐずパンを焼いている時間もなかったので、パンの種を抜いて、それを食べたことから、そのことを覚えて、神様の救いを忘れないために、パン種を抜いたパンを7日間いただきお祝いしたのです。どちらも神様からの救いを覚える時、神様の御業を忘れないで、喜んで生きていくためのお祭りです。このお祭りの時に、イエス様は過ぎ越しの食事をとるための準備をします。

 

2:  過ぎ越しの準備

 イエス様は弟子たちに過ぎ越しの準備をするようにと言います。

 マルコ14:13-15「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」

 イエス様は「都に行きなさい」といいました。もともと過ぎ越しの祭りはエルサレムで行うものとされていました。ただ、イエス様は、この過ぎ越しの出来事を覚えるためというよりは、ここにあって、自分自身がいけにえとして、神様に献げる道を歩き始めたことを示しているのです。これまでイエス様は、すでに3度も、自らの死と復活を教えられてきました。イエス様は、ご自身が過ぎ越しの小羊となるために歩き始められた、十字架の死と、復活の出来事、そのための道を歩き始めたのです。

 弟子たちはイエス様の言葉に従い、エルサレムに向かいました。そしてそこにはイエス様が言われたとおりの出来事があったのです。主イエスが「都に行きなさい、そこに席が整って用意のできた広間がある」と言われた、その通りであったのです。弟子たちには、驚きの気持ちもあったでしょう。過ぎ越しの食事の準備を行います。この時、弟子たちのだれが、この食事がイエス様の十字架への道だと思っていたでしょうか。自分たちがイエス様に言われたとおりに、信じてしたがっていくことが、イエス様が神様に捧げられる小羊としての道を歩んでいると思っていたでしょうか。

 この場面にあって、弟子たちはイエス様の言葉に従いました。そしてそこに、イエス様の言われたとおりの出来事が起こっていったのです。弟子たちはイエス様の力強さを見ても、その先にある、十字架の出来事までは見ることはなかったのではないでしょうか。私たちもまた、神様の御心、御言葉はその通りに起こされている現実に出会うのです。それでも、その先にある、本当の御心、私たちが出会っている現実の、その先にある神様の御心を知るまでには、時間が必要なのかもしれません。この時の弟子たちも、十字架の出来事、イエス様が語られていた十字架の出来事を見てはいなかったのです。

 

3:  ユダの裏切り

 イエス様はこの過ぎ越しの食事の時、にこのように言われました。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」(マルコ14:18)

 ユダの裏切りは、マタイでは金銭のために裏切ったとされ、ルカ、ヨハネではサタンが入って裏切ったとされるのです。しかし、マルコでは、特に、ユダの裏切りの理由、動機は記されていないのです。この前の箇所において、高価な香油を注ぐ女性に対して、弟子たちがしかりつけた。弟子たちは貧しい者のためにお金に換えて、施しをしたほうがいいと考えたのです。そのところを、イエス様は「するままにさせておきなさい、この人はわたしに良いことをしてくれたのだ」と言います。弟子たちからすれば、この出来事はイエス様への不満、不信感を抱く出来事であったのかもしれません。そのような意味から、ユダの心には、イエス様への不信感も生まれていたのかもしれません。それでもマルコでは、そのようなことをユダの裏切りの理由とはしていないのです。イエス様は「人の子は、聖書に書いてある通りに、去っていく。」(21)と言いました。ユダの裏切りは、神様の御言葉の実現、神様の御心の業が成就した出来事の一つとして、ユダの裏切りを伝えるのです。

 今日の箇所では、過ぎ越しの食事の準備においても、また、ユダの裏切りについても、このイエス様の御言葉が成就していくことを見ることができるのです。ここでは、神様の御心の成就、そしてその主権性を見ることができるのです。それは、十字架への準備においても、また十字架へ向かう弟子の裏切り、つまり人間の間違った道を進む時、その一つひとつ、すべての道において、神様の支配があり、神様の導き、そして神様の御心があるということです。

 

4:  呪いから祝福へ

 イエス様は弟子の裏切りを通して、十字架の道を進むのです。「同じ鉢に食べ物を浸している者」とは、人間関係の親しさ、イエス様にとって、大切な存在であることを表します。人間として生きるイエス様にとって、信頼し、共に生きてきた弟子たち。その弟子の一人の裏切りが自分を死に追い込む。このことはどれほど苦しいことであったのでしょうか。

 イエス様は「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」(14:21)と「裏切り者は不幸だ、生まれなかったほうが、その者のためによかった」・・・とまで言うのです。裏切り、それは関係を破壊する行為であり、呪いの行為です。裏切りは、ただ関係を断ち切るだけではなく、その人の心を苦しめ、信頼するということを恐れる行為ともなります。裏切ること、そして裏切られることはどちらにとっても、痛みを残し、心の扉を閉じてしまう行為となるのです。

 しかし、イエス様はこの呪いの行為を受け止められたのです。神様は、この呪いの行為、裏切りを通して、十字架にイエス様を向かわせ、そしてそこから人間の本当の救いを開くのです。裏切りは心を引き裂きます。しかし、その行為をイエス様は受け止められた。それは十字架で実際に命を落とすのと同様に、心も引き裂かれ、人間の弱さ、そしてその心の闇をも受け止められたのです。神様は、この十字架を通して、人間に救いを与えたのです。呪いの行為を、祝福に変えてくださった。それがイエス・キリストの十字架の出来事です。神様は、この人間の裏切りをも用いて御心を完成される。救いの一歩の道へとされるのです。このようなことは人間的には信じられないのではないでしょうか。もはやだれにも受け入れられない、それほどの罪をも、神様は祝福へと用いてくださる。

 それはただ、キリストが過ぎ越しの小羊として、献げられたこと。十字架の上で、すべての者の神様の裁きを受けられたこと。そして、人間のために血を流してくださったことによって、私たちは、神様から呪われた者ではなく、祝福された者とされているのです。

 聖書はこのように言います。

 ヨハネ15:16-17「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。

 

 わたしたちはイエス・キリストの十字架によって救いの中に入れられました。それは、私たちがどのようにかして手に入れるのではなく、私たちが神様に選ばれて、救いの恵みに入れられたのです。わたしたちは神様に愛されて、生かされているのです。イエス・キリストの十字架によって、祝福された者とされているのです。そしてだからこそ神様が教えるのは、「互いに愛し合いなさい。」(17)という言葉です。私たちは、お互いを信じて、お互いのことを受け止めて生きているつもりです。それでも、たった一度の裏切り、むしろそれほど大きな裏切りとまでいかなくても、理解の行き違い、意見の相違があるだけで、お互いに愛するということから、お互いを憎しみ合う者となるのです。

 私たちは弱く、小さい人間です。その象徴的存在、それがイエス様を裏切ったユダの姿ではないでしょうか。裏切り、裏切られ、心の扉を閉ざし、神様の愛すらも受け入れることができない。神様の御言葉が成就していくことからも、目をそらしてしまう。そのような弱さが人間にはあるのです。それでも、そのような人間のところに来て、一緒に歩むことを決められた方、私たちと共に生きる決心をされた方、それがイエス・キリストです。そして、このイエス・キリストを通して、私たちに愛を示された神様がいるのです。

 私たちは、「互いに愛し合いなさい。」と教えられています。今、わたしたちは心の扉を開きましょう。裏切られる恐怖、裏切ってしまう弱さをも受け入れてくださる方がいるのです。何度でも心の扉を開きましょう。主イエス・キリストが私たちのために、一番苦しみの道を歩んでくださった。わたしたちはこのイエス・キリストの十字架のもとに生かされている。そして生きているということを信じていきましょう。