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2015.3.11 「レホボト(広い場所)への導き」 創世記26:15-25

1. 飢饉

 26章のはじめを見ますと、イサクの時代に飢饉があったことが記されています。今日の井戸の話は飢饉の中で起こった「水の問題」「食糧の問題」でもあるのです。

 今日は、4年前東日本大震災から4年目になります。震災の時には食糧などの「買占め」が起こりました。震災現場では力を合わせ、自分のものを差し出しともに分け合っていました。そんな時に放射能によって水が汚染されている、食べ物を買うことができなくなると話題になったときには、震災以外の地域で、大騒ぎをしていました。ほんとうに人間の心の奥には悲しいけれど自己中心という罪があるのだと思いました。飢饉や災害、震災が起こったときにこそ、「食糧や水」「衣食住」を、どれだけお互いに分かち合い、「共に生きる」ことを実践できるかが、私たちには問われています。

 聖書では、飢饉の中で神様は「エジプトに下って行ってはならない。この土地に滞在しなさい。ゲラル地方に滞在するならば、わたしはあなたと共にいる。」といわれました。父アブラハムの時にも飢饉がありました。その時、アブラハムはエジプトに下って行き、難を逃れたのでした。しかし、イサクにはゲラルに留まることを神様は求めたのです。


2. 農業

 創世記26:12-14

 「イサクがその土地に穀物の種を蒔くと、その年のうちに百倍もの収穫があった。イサクが主の祝福を受けて、豊かになり、ますます富み栄えて、多くの羊や牛の群れ、それに多くの召し使いを持つようになると、ペリシテ人はイサクをねたむようになった。」

 神様の導きでペリシテのゲラルに住んだイサク、遊牧民として生きてきたイサクは、今までにしたこともない農業をします。「種を蒔き」そこから恵みを得たのでした。そして、そこから100倍もの収穫を得たのでした。神様の道は人間の思いを越えたところにあります。私たちにとっては考えもしない新しい道でも、神様が示された道には必ずめぐみがあります。しかし、神様からの恵み、祝福は、イサクの人間的な関係を破壊してしまいました。ペリシテ人はイサクをねたみ井戸をことごとく埋めてしまうのです。神様から祝福されて、現実の恵み、祝福を頂いたイサクは、その代わりに、人間的な関係が壊れてしまうのです。


3. 神様の導き?

 寄留者イサクは「出ていけ」とまで言われます。イサクは、出ていき、ゲラルの谷に住みます。そしてそこで井戸を掘り直します。しかし、そこでもゲラルの羊飼いに奪い取られてしまうのです。また別の井戸を掘り当てても、そこでも争いが生じます。

 神様の導きゲラルの地において、イサクはこのすべてを経験したのです。確かにはじめはよかったかもしれません。農業を始めればうまくいき100倍もの収穫があったのです。しかし、そのことから、人間関係がだんだんとうまくいかなくなり、そして、最後には追い出されてしまったのです。すべてを奪い取られてしまった。これが神様の導きなのでしょうか…?神様の導きだとしたら、とんでもない導きです。散々な導き、どうしてこんな人生を歩ませるのかと、神様に訴えたくなる道です。神様のイサクへのとんでもない導き。しかし、このとんでもない導きこそが、私たちを自分自身の人生を振り返らせるのではないでしょうか。確かに、私たちの人生の中にも、願ってもないこと、思いがけないことがあった、翻弄されてきた時がある。そして私たちの人生は、突然の災害と危機、そして死に襲われて、振り回されてきたのではないでしょうか。


4. レホボトに導かれる

 創世記26:22-25

 イサクはそこから移って、更にもう一つの井戸を掘り当てた。それについては、もはや争いは起こらなかった。イサクは、その井戸をレホボト(広い場所)と名付け、「今や、主は我々の繁栄のために広い場所をお与えになった」と言った。イサクは更に、そこからベエル・シェバに上った。その夜、主が現れて言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを祝福し、子孫を増やす、わが僕アブラハムのゆえに。」イサクは、そこに祭壇を築き、主の御名を呼んで礼拝した。彼はそこに天幕を張り、イサクの僕たちは井戸を掘った。

 それでも神様はイサクを最後に、レホボト(広い場所)へと導かれました。レホボトは、神様が与えられた「息つぎの場所」、そしてそれは「休息の場所」として与えられた空間でした。神様がすべての人が休むことが出来るために、「場所」と「時間」と「空間」を造ってくださる意味での広い場所です。神様はレホボトに導かれるのです。人間が作り出したのは一時的な休息、休みではなく、本当の休息としての「場所」と「時間」と「空間」とを神様は造って下さるのです。

 そしてそこにあって、神様はこのように語られます「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを祝福し、子孫を増やす、わが僕アブラハムのゆえに。」イサクはとんでもない導きとして神様に導かれてきました。しかし、その中で神様はずっと共にいてくださったのです。イサクは、人間関係の崩壊や、災害や飢饉の中で、神様が共にいて下さることをただ受け取っていったのでした。そして、イサクは、「神様が共にいる」という中で「レホボト」本当の休息を与えられたのでした。神様の愛を受け取ったのです。


5. イエス・キリスト

 「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを祝福し、子孫を増やす、わが僕アブラハムのゆえに。」(24)

 私たちが生きる道には、さまざまな出来事が待ち受けています。神様の祝福を感じるとき、また神様を見失うほどのつらいとき。それでもどこにあっても神様はいつもともにいてくださいます。そして、そのすべての道を通して、神様は自らがともにいる恵みを知らせてくださっているのです。そして神様は今、私たちと共にいて下さる徴としてイエス・キリストを与えて下さいました。私たちの喜びも痛みも苦しみも悲しみも、イエス・キリストが共に受け止めて下さいます。それが十字架の主イエス・キリストであり、復活の主イエス・キリストです。私たちが生きる「場所」と「時間」と「空間」はイエス・キリストがともに生きてくださっているという中に作られたのです。

 イエス・キリストが共にいて下さるから、私たちはどれほどの突然の出来事に襲われても、そこに祈りと感謝とをもって「生きる」ことが許されているのです。そして私たち人間の不安と不信をイエス・キリストが担って下さっているのです。主イエス・キリストが共に歩んで下さっていることを喜んで感謝して、歩んでいきたいと思います。