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2014.12.10 「イサクに与えられた慰め」 創世記24:1-67

1.結婚 信仰の継承

 23章においてサラが主の御許に召されました。共に歩んできた妻は神様の御許に召されました。そしてアブラハムも多くの年を重ね老人となりました。その中で「主は何事においてもアブラハムに祝福をお与えになっていた」(24:1)とあるように、アブラハムは年を重ねる中で神様からの祝福をいただいたのです。

 神様に従い続けてきたアブラハムです。その人生はよいこともつらいこともあったでしょう。それでもアブラハムの人生は「何事においても」神様からの祝福である、神様が共にいてくださった人生は恵みの道であったのです。

 ただ・・・そんなアブラハムにも心残りのことがありました。それは息子イサクについてです。それはただイサクが結婚できるか、できないかということではなく、「あなたの子孫は星の数ほどにされる」と言った神様の御言葉が実現されるか、どうかということでもありました。アブラハムは、神様の御言葉に従って故郷を旅立ち歩みだしたのです。神様の御心に従う道を、信仰の道を歩みだした、その決心の中に歩みだしたのです。そしてアブラハムは、ついには約束の子イサクも与えられ、祝福に満たされたのです。

 今日の箇所では、アブラハムがイサクの結婚を願い与えられたことを示されています。アブラハムは全財産を任せている年寄りの僕にいいました。「手をわたしの腿の間に入れ、天の神、地の神である主にかけて誓いなさい。あなたはわたしの息子の嫁をわたしが今住んでいるカナンの娘から取るのではなく、わたしの一族のいる故郷へ行って、嫁を息子イサクのために連れて来るように。」(24:2-4)

 アブラハムは全財産を任せている年寄の僕、つまりこれまでアブラハムと人生を共に歩んできた一番信頼している者に言ったのです。つまり一番信頼している者にアブラハムは自分の遺言として、これだけは実行してほしい願いとして頼んだのです。それはイサクの嫁についてでした。イサクの嫁は、アブラハムの一族のいる故郷の者を嫁にするようにお願いしたのです。これはアブラハムの異邦人に対する差別でしょうか。民族の違い、血のつながりの問題だったのでしょうか。そうではないでしょう。ここで問題とされているのは、むしろ信仰の継承、神様に従い続けるための願いの中で、イサクの嫁に故郷の者をお願いしたのです。


2.祈り

 アブラハムはその信仰の継承のために僕を派遣しました。この僕は全財産を任されるほどアブラハムに信頼された人物で年寄りでした。それは、この人物が人間的にも優れていて、人間的な知恵を持つ者えあったことを表しているでしょう。それは、ここでのアブラハムとのやりとり、またこの後におけるラバンとのやりとりをみてもわかりますが、この僕がどんなことも知っている、人生においての知恵、生き方、そのすべてを知る者だということを見ることができるのです。

 その僕はアブラハムの故郷において、まず祈りました。この僕はまず祈ったのです。人間的に知恵を得て、優れていた僕はまず祈ったのです。僕は自分の力、知恵に頼るのではなく、祈ることによって、神様により頼んで生きていくのです。ここに本当の知恵と信仰をみることができます。僕は祈りました。

 この祈りは神様への信仰を求める祈りです。そして、自分だけではなく、他者の為に生きる者、その心に、主の信仰を持つ者を探し求める祈りです。そして、その祈りが終わらないうちに、リベカがやってきました。そしてリベカはこの僕のために水を飲ませて、またそれ以上にラクダのためにも水を汲んできたのです。

 自分のためではなく、他者のために生きる者。僕は祈りのうちに、信仰を継ぐ者として、他者のために生きる娘を求めました。そしてそこに導かれたのがリベカです。リベカは自分のためではなくこの僕のために働き、それはラクダに水を与えるまでに働いたのです。他者のために生きる道。そんな生き方に、神様に対する信仰を見ることができるのでしょう。


3.神様の意志に従う ラバンとベトエル

 僕は祈りのうちにリベカこそが神様の導かれた方と信じたのです。そして、そのことをラバンとベトエルに伝えました。ラバンとベトエルは「このことは主の御意志ですから、わたしどもが善し悪しを申すことはできません。リベカはここにおります。どうぞお連れください。主がお決めになったとおり、御主人の御子息の妻になさってください。」(50-51)と、答えました。

 ラバンとベトエルは、リベカのつけていた腕輪や鼻輪から、僕のもつ財産の多さをみたでしょう。しかし、それ以上に、「主の意志」がここにあると受け取りました。祈りの内に歩んできた僕。そしてそこにある神様の導き、その意志にラバンとベトエルは従ったのです。


4.慰め 愛すること

 このあとリベカはすぐにイサクのもとへと旅立ちました。そして野原を散策していたイサクは、らくだがやってきて、そこにリベカを見たのです。イサクはリベカを妻として迎え入れました。そしてイサクは「イサクは、リベカを愛して、亡くなった母に代わる慰めを得た」(67)のです。

 イサクはリベカを愛する事によって、亡くなった母に代わる慰めを得ました。イサクはリベカに愛されることではなく、愛することから慰めを得たのです。神様はイサクに愛する信仰を与えて、そこに慰めを与えてくださいました。他者を愛すること。そこに信仰があり、また愛するときに自分が神様から愛されていることを感じるのでしょう。