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2014.7.9 「割礼~不信仰を越えて従う」 創世記17:1-27

 

 1.アブラムからアブラハムへ ( 創世記 17:3-8 )

 アブラムはアブラハムと名前を変えるように命令されます。この時、アブラハムは、アブラム「父は高くいます」という名に、「多く」(ハモーン)という言葉が加えられた名前、アブラハム「多くの者の父」と変えられました。ここに、神様からの多くの祝福と恵みが与えられる、契約のしるしとしての名前が与えられたのです。それは同時に、アブラハムが「多くの者の父」「信仰の父」として歩むこと、神様の契約に応える信仰者として歩むことも、信じられて与えられたということでもあるのでしょう。

 この17章はイスラエルの捕囚期に記されていると考えられていますが、神様はアブラハムにこのように続けられます。「わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。わたしは、あなたが滞在しているこのカナンのすべての土地を、あなたとその子孫に、永久の所有地として与える。わたしは彼らの神となる。」(7-8)

 バビロンにおいて、契約がむなしいものと感じられる中にあって、それは永遠に続く、アブラハムからその子孫に、それは永久の恵みとして続くものと神様は語ります。

 アブラハムに子どもが与えられないという人間的には絶望的な状況にあるなか、神様は契約を結ばれます。ここではアブラムがアブラハムと変えられ、「多くの国民の父」とされて示されました。そしてそれは永遠に続く契約であると、アブラハムで終わらずに、どこまでも続く神様の契約であると示されたのです。

 

2.割礼 ( 創世記 17:9-14 )

 神様は、この契約の形、応答として「割礼」を求めます。

 バビロンにおいて、イスラエルとしてのアイデンティティを守るためにも、割礼は重要な儀式的行為となったでしょう。信仰を守るために、イスラエルとして生きるために人々は、この割礼を受けたのです。しかし、それだけでは、形式的信仰に陥る可能性が大きく、危険性があることを覚えておく必要があるでしょう。

 割礼の有無だけに固執することで、本当に大切なもの信仰を見失うことを聖書では何度も注意しているのです。それは、今の私たちにとってみれば、バプテスマであり主の晩餐など、そのほかどのような形式も同じでしょう。もともと決まった形だからこそ、そこから思い出される信仰と恵みがあるのです。そしてそこからもう一度立ち返る信仰があるのでしょう。そのことを忘れて、形式を大切にしてしまうことに陥らないようにしたいと思います。

 そしてまた聖書は続けて言います。「包皮の部分を切り取らない無割礼の男がいたなら、その人は民の間から断たれる。わたしの契約を破ったからである。」(14)この言葉から無割礼への選択があったことを知ることができます。つまり、この言葉は割礼が、バビロン捕囚という中で、神様の契約に対する応答を求める行為であることを示す言葉なのです。一人一人が個人個人の決断として、神様の契約に応答するという決断がこの割礼に求められているのでしょう。

 

3.不信仰を越えて ( 創世記 17:15-22 )

 神様は、「サライをサラと呼びなさい」と言われました。神様は、サラを祝福し、彼女から契約の成就がなされることを約束されます。アブラハムは態度ではひれ伏しながらも、ひそかに笑い「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。」(17)と言ったのです。そして、すでにいる息子イシュマエルからの祝福を見るのです。これは明らかにアブラハムの不信仰であり、神様の計画を笑い、その御心を信じない不信仰から出た人間的祈りです。

 神様は、不信仰から出たアブラハムの祈りもまた聞き入れ、「イシュマエルについての願いも聞き入れよう。必ず、わたしは彼を祝福し、大いに子供を増やし繁栄させる。彼は十二人の首長の父となろう。わたしは彼を大いなる国民とする。」(20)と答えられるのです。

 ここに神様の恵みの深さを見ることができます。

 神様の御心は変わることはありませんでした。その未来は不妊の女性サラからの子イサクにかかっているのです。それは人間的計画を超えて、その思いをはるかに超えた神様の御心であり、絶望の向こうを見る力を与える神様の御心です。人間の力ではどうすることもできない時、その未来を見ることができない中にあっても、神様の契約は変わることはありません。神様は必ず未来を新しくしてくださる。そのことを示してくださっているのです。

 しかし、それだけではありません。そんな神様の御心を信じきることができない人間の弱さをも、また神様は受け入れてくださることも、ここには示されているのです。アブラハムは、神様の計画を聞いて、もはや信じ切ることはできずに、神様を笑い、自分の理解できる範囲、その切り札としてのイシュマエルにおける計画を願い、祈るのです。

 神様は、そんなアブラハムの祈りもまた聞き入れられたのです。この願い、この祈りは、神様の本来の御心から離れた願いだったかもしれません。それでも、この祈りを神様は聞き入れられました。それは人間が弱さの内に生きる、その弱さを受け入れる神様の心の愛の深さを知る出来事ではないでしょうか。

 

4.従う ( 創世記 17:23-27 )

 アブラハムは、イシュマエルを含めた自分の家の者男性、すべてに割礼を施しました。神様の計画を笑い、不信仰の中にあったアブラハムでしたが、最後に従う者と変えられていくのです。

 これまでのアブラハムの旅の生活もそうですが、エジプトで不信仰に陥り、ハガルの一件でも、神様から心は離れ始めていました。それでも、そこからなんども神様に向き合って従い続けるその姿、悔い改める信仰は、本当に大切なものでしょう。

 割礼とは、その儀式一回の形式的出来事で、信仰が完成して終わったということではないでしょう。それはバプテスマも同じです。そこから神様に向き合う本当の意味での人生が始まるのです。弱さや失敗、間違いの中でも悔い改めて、立ち返る人生。そして次は、神様に支えられているからこそ、悔い改めたからこそ間違えないために生きる決心をしていく、そんな人生です。

 私たちも、そのように神様に向き合い、間違えを乗り越えて、立ち返り、悔い改めて、信仰の道を歩んでいきたいと思います。