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2014.6.25 「神の救いを受けて」 創世記16:1-16

① ぐらついた信仰 ( 創世記 16:1-6 )

 今日の箇所では最初に「アブラムの妻サライには、子供が生まれなかった。」(1)と記されます。神様はアブラムにあなたの子孫は数多く、数えることができないほどになると言われました。しかし、その約束はどれほど待っても果たされることはありません。時間が経てばたつほどにアブラムとサライは年をとり、神様への信頼は揺れ動いていったでしょう。その中で、サライはアブラムに一つの提案をします。

 「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません。」(2)

 このサライの提案はいろいろな意味で間違っていたとは思えない提案でした。当時の法的には、このように妻が自分の女奴隷を夫に与えて、そこに生まれた子どもを自分の子どもとすることは合法的なもので、サライの提案は倫理的にも、当然と思われる行為であったのです。

 このサライの提案によってアブラムの側女として、ハガルが連れてこられました。そしてハガルは子どもを身ごもったのです。サライの提案は成功したように見えたのです。しかし、そこからアブラム一家は祝福へと導かれるのではなく破滅の道をたどることになります。子どもを身ごもったハガルはサライを軽んじるようになりました。そのためにサライはそのことをアブラムに訴え、アブラムはハガルの扱いをサライに委ねたのです。そしてサライはハガルを苦しめ、結局ハガルは、アブラムとサライのところから逃げ出すことになったのです。

 法的にも、倫理的にも問題のないサライの提案でした。サライにとっては、人間的に最善の方法を選んだはずでした。神様がされた約束。祝福の恵みの出来事が、なかなか成し遂げられない中で、サライは自分でできる限りのことをしようと提案をして、その方法をさぐり、考えに考えて、この自分の女奴隷から子どもを得るという方法を考えたのでしょう。しかしその提案が生み出したものは喜びと恵みではなく破滅と苦しみでした。いったいなにが問題だったのでしょうか。

 サライの提案は、神様への信頼が失われ、ぐらついた信仰の中での提案だったのです。ここに問題がありました。アブラムとサライは神様への信仰を失いつつあった。そのなかでのサライの提案であり行動であったのです。その行いは、人間的にどれほど正しく見えても、神様の前にあっては、義とされないことだったのです。

 

② 誘惑 ( 創世記 16:1-6 )

 人間的に正しいこと。社会的なルールや倫理、道徳。それ以上にわたしたちにまず求められている価値観、生きる指針とは、神様に委ねるという信仰です。

 このときのサライの提案は一つの誘惑です。その誘惑にのっかったのが夫アブラムでした。それは創世記の最初にエバが蛇の言葉の誘惑に、アダムがエバの言葉の誘惑によって罪の中に陥っていったように、このときはサライの誘惑にアブラムが罪に陥ったのです。アブラムはサライの言葉と主の言葉と選ぶことができました。アブラムは、その中でサライの言葉を選び取ったのです。

 星の数を数え、ただ信じるよりは、実に現実的で、計画的な言葉です。アブラムはその誘惑に負けてしまったのでしょう。

 わたしたちの目の前には、神様の御言葉よりもはるかに現実的なものがいくつもころがっているでしょう。生活をささえるために必要な多くの知恵、財産、才能、その他・・・確かに、この一つ一つが、神様が与えてくださっているとても大切な賜物です。だからこそ、私たちはその源となっている神様の御言葉をまず第一に求め、そして神様の御言葉に委ねる信仰が求められているのです。聖書は私たちに教えます。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(詩編37:5)

 

③ 従順に仕える ( 創世記 16:7-8 )

 話はアブラムとサライから、逃げ出したハガルとその子イシュマエルへと焦点が移り変わります。

 主の御使いがハガルと出会い言います。「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」(8)その問いに対して、ハガルは「女主人サライのもとから逃げているところです」(8)と答えます。この時のハガルに行く場所はなかったのでしょう。行く先のない、生きるこれからの道筋の見えていないハガルに対して、主は「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」(9)と教えます。

 ハガルは、子どもを与えられた時、女主人であるサライを軽んじたのです。今、ここで流浪して、生きる道を見失っている最初の原因はハガル自身にありました。子どもが与えられたことから、自分の立場を見失い、サライのことを侮り、軽んじたところから始まったのでした。そして生きる場所を失い、生きる道を見失ったハガルがいるのです。

 そのハガルに主は「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」(9)と教えるのです。それは「従順になる」ことによって自分を見出すことを教えているのです。

 わたしたちは「従順になる」ことを忘れてはいないでしょうか。それはお互いに対して、そして神様に対してです。わたしたちはどこからきて、どこへ行こうとしているのか。神様に従順に仕えることを忘れてしまっている時に、どこに行くという、その道筋が見えない者となってしまうのでしょう。そのようなわたしたちに主は言われるのです。「主のもとに帰り、従順に仕えなさい」と。

 

④ 顧みられる神 ( 創世記 16:7-16 )

 ハガルは、荒れ野にあって、出会ってくださり、言葉をくださる神様を賛美していいました。「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です」(13)神様はハガルを顧みられたのです。サライを軽んじ罪を犯し逃げ出した者、ハガルを見捨てはしなかったのです。神様はハガルが悔い改めることを待ち続けてくださったのです。

 そして生まれた子の名はイシュマエル(神、聞き届けたもう)と名付けられました。「主があなたの悩みをお聞きになられた」(11)。神様は契約の者アブラムとサライから逃げ出した者ハガル、そして約束の子ではないイシュマエルをも見捨てることはなかったのです。神様はハガルとイシュマエルのためにも、耳を傾けて顧みてくださったのです。

 神様は、罪を犯し逃げ出した者が悔い改めることを待ち続けてくださっています。私たちを見捨ていることはなく、いつも耳を傾けてくださっています。神様は顧みられる方です。わたしたちはそのような神様に信頼することを思い出しましょう。