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2014.6.11 「主を信じた」 創世記15:1-21

 

 

 

  1. 御言葉の力強さとむなしさ ( 創世記 15:1-3 )

    神様は、アブラムに「恐れるな」(1)と言われました。

    もともとアブラムの旅は、神様の招きによって始まった旅です。神様だけを土台としてきたものです。そしてそれは12章において、サライの不妊という中からの招きで始まった旅立ちです。主の恵みを信じて、75才からの出発です。

    その旅の中でアブラムは、エジプトに逃げ、甥のロトとも別れ、そのロトの救出のための戦いもしてきました。神様に従い、さまざまな困難に出会い、しかしそれでもなんとかその道を乗り越えてきたのです。しかし、アブラムの一番の心の重荷、サライの不妊というところは、15章になっても未だ変わることはありませんでした。このことがアブラムにとってどれだけ心の重荷になっていたでしょうか。

    アブラムは言います。アブラムは「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」(2)「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」(3)

    それは、神様の言葉「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」(1)に対しての抗議の言葉でもあったでしょう。

    アブラムにとって、このときの神様の御言葉はどのようなものであったでしょうか。神様の御言葉は力強く、命のあるものです。しかし、この時、アブラムに語られた言葉「恐れるな」という言葉「わたしはあなたの盾であるあなたの受ける報いは非常に大きいであろう」という言葉は、今のアブラムの心に響いたのでしょうか。むしろ、むなしく、むしろ心をしめつける言葉となっていたのではないでしょうか。

    アブラムは、神様の言葉に言い返すのです。「わたしに何をくださるというのですか」。「恐れるな」と言われても、「わたしの報いは大きい」と言われても、アブラムは、「あなたはわたしに子孫を与えてくださいません」と言い返すのです。アブラムの心は「なぜ、あなたは、約束を果たしてくださらないのですか」という思いでいっぱいだったのでしょう。その上で語られる神様の御言葉は、むしろアブラムの心を締め付ける言葉となっていたのではないでしょうか。

     

  2. 星を数えてみるときに ( 創世記 15:5 )

    これに対して神様は、アブラムを外に連れ出します。「外に連れ出す」とは一つには、その思いからの解放を意味する言葉でしょう。神様は、私たちの心がどうしても絶望、暗闇から抜け出すことができない思いにあるときに、そこから解放する力のある方です。

    神様は、アブラムを外に連れ出して、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」(5)と言われました。

    わたしたち人間は、現実が変わらないときに、何の報いもないときに、神様の存在を信じなくなる、その信頼が揺らぐかもしれません。しかし、神様はいつ、どこにあっても、いつまでも主なる神であります。過去も、現在も、未来も、変わることがありません。それは天を仰ぎ、星を見るときに、その主なる神様の被造物を見るときに感じることができるものでもあります。

     

  3. 主を信じた ( 創世記 15:6 )

    「アブラムは主を信じた」(6)アブラムは、「主」を信じたのです。それはいつかくださる「報い」でも、その神様の力、そのほか何か未来にいただく恵みでもなく、「主」との交わりによる「主」の存在を信じたのです。これがアブラムの信仰です。アブラハムは何を信じたのでしょうか。それはアブラムの重荷、躓きの言葉、神様に言い返す言葉。そのすべてを受け止めて向かい合ってくださる神様、共に生きてくださる方ではないでしょうか。

    15章の最初から、抗議をするアブラムにとって何も状況は変わっていません。ただ、アブラムは、主がそこにいてくださることを信じたのです。それは旅立ったときと同じでしょう。揺らぎ、もう限界を超えた気持ちです。神様についていくことがつらくなり、信じていくことができない現実の困難の中です。しかしまた、その気持ちを知り、受け取って聞いて下さるかた主を信じたのです。主なる神様は、必ず共にいてくださると、そのとき、アブラムは希望を受け取ったのです。その信頼の道を生きる決心が信仰の道です。

     

  4. 待ち続ける信仰 ( 創世記 15:7-21 )

    この後、7-21節において、アブラムと神様の約束が果たされることを表す、その祭儀が示されます。神様は、アブラムとの約束を果たすことをここで明らかに示すのです。

    神様はアブラムにこのように語りかけます。「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。しかしわたしは、彼らが奴隷として仕えるその国民を裁く。その後、彼らは多くの財産を携えて脱出するであろう。あなた自身は、長寿を全うして葬られ、安らかに先祖のもとに行く。ここに戻って来るのは、四代目の者たちである。それまでは、アモリ人の罪が極みに達しないからである。」(13-16)

    神様は、アブラム自身の幸いを語りながらも、子孫の400年にもわたる奴隷としての苦しみがあり、のち4代目になって脱出し戻ることができると語るのです。

    わたしたちの信仰は、悔い改めを繰り返し続けることとも言えます。信仰の歩みは罪と悔い改めの繰り返しです。主が共にいてくださるからくじけそうになるけれど、もう一度前を向くことができるのです。私たちは主の十字架によって、何度でも前を向くことが赦されたのです。

    そして、最後の時、私たちは死によって神様の御許に向かい、主の再臨を待つのです。愛の完成を待ち続けて、神様の約束、新しい命が与えられる時を信じて生きるのです。この世においては、どれほど良いこと、悪いことが起こっても、その道は変わりません。

    そうは言っても、悲しみや痛みが起こるときに、信頼が揺らぐ時があります。主が共にいてくださるということに対する不安が起こるのです。わたしたちは、そのような時に、今日のアブラムの信仰を覚えましょう。神様が共におられること、わたしたちのところに来てくださって、共に歩んでくださっていることを覚えて、信頼して歩んでいきたいと思います。