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2014.4.30 「礼拝から礼拝へ〜立ち返る信仰~」 創世記13:1-18

 

 

 

  1. 最初の場所へ ( 創世記 13:1-4 )

    アブラムは12章10節からの場面において大きな飢饉に遭遇し、エジプトに下っていきました。そこでは、ファラオに妻サライを妹と言い、そのために多くの財産を与えられたのです。しかし結局は神様によってすべてが明らかになって、アブラムはエジプトから追放されたのです。

    今日の13章のその後の話です。アブラムは「妻と共に、すべての持ち物を携え、エジプトを出てネゲブ地方へ上がった」(1)そして、「そこは、彼が最初に祭壇を築いて、主の御名を呼んだ場所であった。」のです(4)アブラムはエジプトで犯した罪を振り返りながら、帰っていきます。その帰る場所は、最初に祭壇を築いて、主の御名を呼んだ場所でありました。アブラムは、最初の信仰に立ち返ったのです。

    エジプトにおいて、アブラムは、神様に祈ることから離れていました。ファラオの権威、権力の前にあって、「妻」を「妹」と呼ぼうと決断したのです。神様に委ね祈ることもなく、恐れに自分の知恵で備える、そんな決断をしたのです。

    今日のアブラムの姿には、そのエジプトでの行為から立ち返る、信仰に立ち返る姿がみることができるのです。「最初に祭壇を築いて、主の御名を呼んだ場所」、神様に最初に出会い、祈り、礼拝した、そんな時の信仰に戻らされるアブラムの姿です。アブラムは神様に立ち返っていったのです。

     

  2. 増えすぎた財産 ( 創世記 13:5-9 )

    アブラムと共に旅をしていたロトもまた、羊や牛の群れを飼い、たくさんの天幕を持っていた。その土地は、彼らが一緒に住むには十分ではなかった。彼らの財産が多すぎたから、一緒に住むことができなかったのです。アブラムの家畜を飼う者たちと、ロトの家畜を飼う者たちとの間に争いが起きました。

    ここにアブラムの甥ロトが登場します。ロトは、アブラハムの兄弟ハランの息子で、アブラムの甥になります。アブラムとロトの財産は多くなり、同じ土地に一緒に住むことができなくなったのです。当時の財産は、「羊」「やぎ」「牛」といった家畜でした。そのため家畜が増える中で、草も水も十分に得ることができなくなっていったのでしょう。アブラムは「お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。」(8)と言いますが、そこに起こる争いとは、十分に足りない井戸の奪いあいでしょう。

    飢饉によってエジプトに下ったアブラム一行が財産を得て、今度は、財産が増えすぎて争いを起こしているのです。

     アブラムの羊飼いもロトの羊飼いも、どちらの者の貪欲という思いに支配されていたのではないでしょうか。財産が増える中で、分かち合うことよりも争いに向かってしまった姿がここにあるのです。

     

  3. 何を求めていくのか ( 創世記 13:10-13 )

    ロトは、目を上げて眺めたときに、何を見たのでしょうか、そして何を求めていたのでしょうか。ロトは見た目の美しさ、潤い、魅力に目を奪われたのでしょう。そして左と右という決断をしました。ソドムとゴモラの内面的な罪、問題も記されているのですので、理解していたのかもしれません。それでも、それ以上の魅力のほうが上回ったのでしょうか。ロトはソドムとゴモラを選んだのです。

    この時、ロトは何を求めて、何を願っていたのでしょうか。

     

  4. 目を上げなさい ( 創世記 13:14-18 )

    主はアブラムに「目を上げなさい」と言われます。「目を上げて、私が導く地をよく見なさい」と神様は祝福されるのです。

    わたしたちの心を満たしてくださるもの。それは魅力的な土地、多くの財産ではないでしょう。なにも私たち人間の貪欲を満たすものはないのです。わたしたちを満たすことができるのは、神様の祝福、その愛です。私たちはこの神様の恵みを覚えたいと思うのです。そして神様の愛を選びとっていきたいと思います。

     

  5. 礼拝 ( 創世記 13:18 )

    アブラムは天幕を移し、ヘブロンにあるマムレの樫の木のところに来て住み、そこに主のために祭壇を築いた。今日の箇所は、アブラムの信仰の立ち返りの礼拝、悔い改めからはじまり、最後も礼拝で終わります。アブラムは悔い改めて礼拝して、そして大きな選択を迫られたときに、主に委ねて礼拝をしました。このように見ると、私たちの生活、その一日一日を歩むために、礼拝の大切さを教えられる箇所でもあります。罪を犯した時の悔い改めのために。そして大きな決断で間違えないために。主に向かい合っていきていくために、そして道を踏み外したときには帰ってくることができるために、必ず礼拝が必要なのだと教えられます。