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2014.2.12 「祝福を分け合うために」 創世記9:18-29

1.    全世界へ (創世記9:18-19)

 洪水ののち神様はノアと彼の息子たちを祝福され言われました。

 「産めよ、増えよ、地に満ちよ。地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。」(9:1-2)

 そして箱船から出て行ったその息子「セム、ハム、ヤフェト」から全世界の人々が出て広がったと記されています。

 創世記は世界の創造から、人間の創造に続きます。そして、このノアの洪水、祝福から「全世界の人々」へと広がってきます。それは、神様からの祝福が全世界まで広がっていく。私たちが神様からの祝福をいただき、分かち合うときに、それはどこまでも広く、大きな祝福が与えられることを教えているのだと思います。

 このあと10章では、ノアの系図になり、その息子3人から「ノアの子孫である諸氏族を、民族ごとの系図にまとめると以上のようになる。地上の諸民族は洪水の後、彼らから分かれ出た。」(10:32)と終わります。ただ、今日の箇所から10章の箇所においての資料はまったく違うものなので、つじつまがあわなくなる部分、不調和な部分も生じています。今日の資料は、その中で原初の物語から、世界に向かう一歩の話です。

 神様の祝福、神様の福音をいただき、分かち合うということを考える場面だと思います。

 

2.    ノアが農夫、土の人となる (創世記9:20)

 今日の話には突然「農夫」という言葉が現れます。ノアが突然「農夫」になったという言葉の背景には、一つにイスラエルが、カナンの地に定着し、農民となっていたという時代の背景が実際にあったのだと考えられています。イスラエルはすでにカナンの地において農夫となっていました。そして、ではこの「農夫」という言葉にどのような意味があるのか。この「農夫」という言葉は「土の人」という言葉の意味を持っています。洪水の前、アダムによる神様との関係を表す言葉。創世記3:17-19「お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して、土は茨とあざみを生えいでさせる、野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」

 ノアはこの関係を「慰め」に変える者、今日の箇所はその「希望」の成就を語って、ノアは「土の人」「農夫」と語られたのではないでしょうか。創世記5:29「彼は、『主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるであろう』と言って、その子をノア(慰め)と名付けた。」

 ノアが「農夫」「土の人」となることは、「大地の苦労」を「慰める」という事柄の成就を意味するのです。ノアは農夫としてぶどう畑を作ります。呪い「いばらとあざみ」ではなく慰め「ぶどう」という恵みを与えられる者とされたのです。ぶどうは、旧約聖書の中において、イスラエルにおける最大の恵みを示す植物です。ノアは、ここで慰めであり祝福を「ぶどう」を与えられる農夫となった、「土の人」となったのです。土は呪われ、与えられるものは「いばらとあざみ」であった人間が、神様の慰めによって「ぶどう」を与えられる者と変えられたのです。

 

3.    慰め 

 神様は人間を創造されました。しかし人間は神様に背き、罪のうちに生きる者となりました。土は呪われ、茨とあざみを生み出すものとなったのです。それはノアの時代になって頂点を迎えます。神様の目に、人間は罪人でありました。そしてノアの洪水は私たちにそのことを教えます。

 しかし、神様はそのような罪人である人間をただ見捨てるのではなく、慰めてくださいます。

 「いばらとあざみ」しか生み出すことができない人間。そんな人間自身の苦しみ、罪悪感を神様は知って慰めてくださるのです。そこに神様の愛がありました。罪人である人間だけでは土からは「いばらとあざみ」しか作ることができないのです。「農夫」となる。それは、神様を信じて、神様の慰めを受け入れること、信頼に生きることではないでしょうか。わたしたちが神様を信じるときに、神様の慰めを受け入れるときに、わたしたちは神様の祝福を与えられる者となるのです。

 

4.    天幕でのノア (創世記9:21-23)

 ノアはぶどう酒に酔っていました。ここでは、ノアを中心にすることではなく、息子3人が中心となるでしょう。セムとヤフェト2人は父親のためできるだけ気を使って行動をします。それに比べ、ハムの行動は、特に気を使ってはいない行動です。セム、ヤフェトは「父親」を「父親」として尊敬して、その関係の中に生きたのです。しかし、末の弟、ハムはそうではなかったのです。

 父親、母親との関係、その考え方、行動、生き方は、神様との関係につながるものでもあります。つまり、この記事は続けて、セムとヤフェトは神様を神様としていたことを表し、ハムは神様を神様として、その関係の中に生きていなかったことを表しているのです。

 

5.    それぞれの民族 (創世記9:24-27)

 「カナンは呪われよ、奴隷の奴隷となり、兄たちに仕えよ。」また言った。「セムの神、主をたたえよ。カナンはセムの奴隷となれ。神がヤフェトの土地を広げ(ヤフェト)、セムの天幕に住まわせ、カナンはその奴隷となれ。」(25-27)

 カナンとは、ハムの息子カナンです。ここでは、すでにカナンの地にすんでいたイスラエルという背景の中、先住民カナン人を表して「カナンよ呪われよ」と言ったのでしょう。ハム、そしてカナンは、親不孝であり、それは、神様を神様としない者であったのです。その不信仰なる者は無力であることを、「奴隷」という言葉で表すのです。神様を神様としない者、それは、神様の慰めを受け取ることを拒否する者です。それはどこまでも罪を慰められることはないのです。

 ノアは続けて、「セムの神、主をたたえよ」(26)と叫びます。セムとはイスラエル民族としてのイスラエルを指して「セム」と語っていると言われます。ここで大切なのは、親孝行をしたセムが称えられるのではなく「セムの『神』、『主』をたたえよ」と言われたのです。主なる神、神様が賛美され、その神様から与えられる信仰、その慰めが、わたしたちにおいて生きる希望となるのです。

 そしてヤフェトも一つの民族、ペリシテを表しているのだと言われます。イスラエルととても密接な関係があった民族、ペリシテ人です。もともと、天幕を一緒に、一つの天幕に住むということなど考えられない出来事。つまり、領土を一緒にするということなど考えられない出来事なのです。

 しかし、イスラエルは、カナンの地において約束の地は独占できなかったのです。約束の地はイスラエルだけのものではなかったという現実が目の前にありました。このペリシテ人と約束の地を共にするということにはとても大きな謎があり、そして大きな意味があります。神様は約束を果たすことができなかったのか。果たす力がないのか。そうではないのでしょう。神様は、イスラエルが、約束の地を独占することを良しとされなかったのです。

 人間が一つの幸せを自分だけのものとすることはとてもむなしいことです。幸せは分け合う時に、どこまでも広がるものです。まさに5つのパンと2匹の魚のように、幸せ、喜び、恵みは、分け合うこと、分かち合うことができるのです。神様はそのことを教えているのではないでしょうか。土の人「農夫」となったノアは、神様からの慰め、祝福をいただいて全地へと広がっていきます。それは神様からの祝福を分かち合う者として、恵みと喜びを分かち合う者とされて出て行ったということを教えられます。わたしたちも、主イエス・キリストの福音を受けて、その喜びを共に分かち合うために、出ていきたいと思います。