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2013.10.20 「イエスを主とする」 マルコ3:20-30

1:  身内の人びと

 イエス様の話を聞いた、身内の人びとがやってきました。身内の人びとはイエス様が「気が変になっている」との話を聞きました。そして取り押さえにやってきました。そこに、それほど、悪意があったのではなく、イエス様のため、また一緒に生きるためにも、「イエス様を取り押さえ」に来たのでした。

 

2:  ベルゼブル

 律法学者は、イエス様をベルゼブルに憑りつかれている者だと叫ぶのです。「ベルゼブル」とは「バアル」「ゼブル」。カナンの神「バアル」と、「ゼブル」とは、「家の主」「宮の主」という言葉として理解され、合わせて「家に住みつく神様」です。つまり「家を支配し、治め、その一帯の神となる神様」、「バアル」「ゼブル」「ベルゼブル」と叫ばれた。イエス様は、そのベルゼブルに憑りつかれた者、そしてこの一帯を悪に染めていく者だと、律法学者は叫んだのです。

 

3:  イエス様の答え 

 イエス様は、律法学者の叫ぶ言葉「家の神様」に対応して、「王国、家、家財道具」のたとえをもって、「悪霊の力をもって悪霊を追い出すことはできない」ことを教えます。

 人間は、自分を中心として生きているものです。エゴの塊。それが人間であり、人間はエゴイストそのものです。人間が神様を見ていない時、それは「悪霊」を主としています。イエス様は、そんな人間の心の解放のために来られました。その家の一番強い人を縛りあげ、解放するために来られた。自分中心の人生から、他者に仕えて、他者と共に生きる心を持つために、イエス・キリストはきてくださったのです。

 

4:  赦されない罪  愛を受け入れない

 「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」(マルコ3:28-29)

 キリストの愛を知りながらも、受け入れない時、私たちは、どのようにして生きるのでしょうか。神様の愛から逃れていきる時、それは、どのような人生になるのでしょうか。

 ボートで遭難した人間が、助けに来た救助隊の手を振り払い、救助はいらないと遭難を続ける道。救助隊は救助を続けて助けようとして、何度も何度も手を伸ばしてくれるでしょう。それでも逃げ続け、遭難を続ける道を選びとるときの道。それが、「赦されない罪」「神様の愛から逃れつづけ、離れつづける道」です。

 それでも、いつまでも、イエス・キリストは、私たちの心に押し入って入るでしょう。私たちの心を愛で満たすために、私たちの心の痛みを共に痛むために。私たちを孤独にしないために。イエス・キリストはいつまでも、私たちに手を差し伸べてくださっているのです。

 私たちは今、このイエス・キリストを主人として生きていきたいと思います。イエス・キリストを主人とする。イエス・キリストを心に迎えるときに、私たちは神様の愛に包まれるのです。愛は知るもの、教えられるものではなく、感じ取るもの、一緒にいる神様の存在によって、心が満たされて、動かされ、次に伝えることによって、愛を共に感じることによって、はじめて本当の愛となるのだと思います。