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2013年8月28日 「神様への信頼」 創世記3:1-7

1.      蛇の誘惑 ( 創世記 3:1 )

 今日は、蛇の誘惑によって人間が神様を裏切り「善悪の木」から、その果実を食べ、神様との関係を壊してしまう場面です。神様は2章でこのように言いました。

 「主なる神は人に命じて言われた。『園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。』」(創世記2:16-17)

 創造主なる神様は人間に一つの生き方、神様との関係として、「『善悪の木』からは食べてはならない」と教えられました。その理由は「食べると必ず死んでしまう」ということでした。神様はここで、人間を信頼し責任を与えてくださいました。これが本当の神様に与えられた神様との関係だと思います。しかしまた、時々、わたしたちはこの神様の言葉に「なんでだろう?」「こんな木を作らなければよかったのに」「神様はなぜこの木を作ったのだろう?」と思う時があるのではないでしょうか。「善悪の木」の存在。その一つには、人間が善悪を勝手に判断する者となり、自分で価値基準を造りだすことによって、自分が神様となる。自分を神様とすること、それが「善悪の木」からその「果実」を食べることだと思います。

  

2.      蛇の誘惑 2 ( 創世記 3:2-5 )

 「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」(3:2-3)

 蛇の誘惑に対して人間は、神様の言葉に「触れてもいけない」という言葉を付け加えました。そして「必ず死ぬ」という言葉が「死んではいけない」とされたのです。私たち人間は、神様の御言葉、その存在に「なんで?」「どうしてだろう?」と思うことがないでしょうか。「食べてはいけない」、「触れてはいけない」なんて・・・理解ができない御言葉だと思うことがないでしょうか。

 合わせて「必ず死ぬ」と言われたはずのところは「死んではいけない」「死なない方がいい」と。それくらいでは死なないけれど・・・「食べないでほしい」と思っているくらいに思う。それが人間の神様の御言葉を理解する、勝手な理解。人間の思いを中心にしていくときの神様を理解できないで、私たちを中心に考えるときに、神様の御言葉をまげて考えてしまう時の象徴的な言葉なのだと思います。

 ここで人間は、神様が与えて下さった御言葉をゆがめて理解している。神様が信頼して、恵みとして人間に送っている御言葉を、人間は、「理解できない言葉」とうけとってしまうのではないでしょうか。そこに蛇の誘惑がやってきます。それが「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」(3:4-5)という言葉に表されます。

 蛇は人間に「自分の命は自分のもの。自分が神様になれる。もっと自由になれる。」と教えるのです。

 

3.      神様への疑問

 みなさんの生活においてこのような誘惑が起こされることはないでしょうか。わたしはいつも起こされています。「なんでだろう」「どうしてだろう」「神様はなぜこのようなものを作られた?」「なんでこんな自分が造られた?」「こんなことを起こされたのだろう?」

 最近では東日本大震災が一番の例だと思います。多くの人が、神様の存在、御業の意味を理解できないと思いました。

 この出来事から、「神様という存在は理解できる。それでもその神様の愛と義について理解することができない。」という言葉を聞きました。「なんで」「どうして」と思う出来事は、世界でも起こりつづけています。身近な出来事としても、自分の病気、家族の突然の事故や死。そのような出来事においても・・・神様は「どうしてこのような悲しい出来事を私に向けて起こされたのだろう」と言いたくなるものです。そして、神様の存在、与えられた命の生きる意味、神様の愛を疑いたくなるものです。

4.      神様の答え

 「なんで?」と求める私たちに、神様はどのように答えているのでしょうか。それは、実際の体験を通してしかわからないことが多いものですが。実際の苦難を通してみるときに・・・自分が自分を中心に生きていること、自分の価値観で生きていることを教えられるときがあります。

 「なんでなんだろう」と思う時に、自分の価値観をもって、神様の愛を測り、求め生きている自分を教えられるのです。神様の愛イエス・キリストを知るときに、共に苦しむイエス・キリストを知るときに、もっと大きな神様の愛、人間では測ることのできない神様の愛の大きさを教えられるのです。そしてだからこそ、与える神様の試練があり、そこには必ず神様も共に苦しむイエス様がいてくださいます。

 

5.      人間の答え

 「なんで?」と求め続けている私たち人間。誘惑に負けて、「善悪の木」からその果実を食べていくということは、神様との関係を無視して、自分を中心に生きていくということだと思います。それはイエス・キリストが共にいること、神様の愛、神様の御言葉を忘れて生きていくことだと思います。ある人がこんなことを言っていました。

 「自分の人生は自分の人生だ。自分の命は自分の命。困難、苦難は大変で、乗り越えるのは大変だけれども、自分の努力でどうにかする。そして、その結果も自分のもので、それは神様とか、そういうものとは関係ない。」と言っていました。

 

6.      神様との関係 ( 創世記 3:7 )

 人間の目は開かれました。しかしそれは、神様との関係の崩壊、そしてお互いの関係の崩壊を意味していたのです。人間は、お互いに裸でいることを知り、お互いを隠し、また神様が来られる時に、神様の顔を避けて、隠れたのです。ここに関係の崩壊が示されます。

 神様との関係が崩壊して、神様から顔を隠して生きるとき。「自分の人生は自分のもの」「自分の命は自分のもの」と生きていくときに、それは自分の裸の姿、自分の本当の心の闇、心の痛みを本当に見せることができなくなるのです。お互いを信頼して愛すること、共に生きる関係を失ったのです。

 神様はいつまでも、このように教えます。「私がいつも共にいる」「どのような時もいつも共に生きている」と教えているのです。そしてそのことを示したのがイエス・キリストです。私たちにはいろいろな苦難があります。

 それでも、私たちはそこからも神様が共にいてくださることを知り、神様が共に生きていることを教えられるのではないでしょうか。むしろ本当は、私たちは試練の時、苦難の時にこそ、神様の愛を実感できるのかもしれません。そして、この、神様の愛を受け取ってこそ、私たちは、お互いのために、お互いに共に生きることを教えられるのだと思います。