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2018年

7月

13日

2018.7.15 「裁きではなく赦しを」(全文) マタイによる福音書7:1-6

1:  『アメイジング・ジャーニー』から

 本日、礼拝後に青年会を持ちたいと思っていますが、ぜひ、「自分は青年だ」と思われる方は、ご出席ください。第一回の青年会では映画鑑賞を行いました。『アメイジング・ジャーニー』という映画を見ました。その内容は、「神様」「イエス様」「聖霊」が実際に登場することもあり、神学的には賛否両論の意見があるお話しでたが、私はその中でも、いくつかのことを学ぶことができました。その内容はすべてをここでお話しすることはできませんが、少しお話ししたいと思います。

 まず、主人公は、小さい時に親から虐待を受け、最終的にその父親を毒殺してしまったのです。その出来事からの「父親への憎しみ」そして「罪の意識」「自分を赦せない」という思いが心に生まれたのです。そのうえで、大人になった主人公が、今度は、自分が少し目を離したすきに、自分の子どもが誰かに連れ去られ、殺害されてしまったのです。そこからは、「なぜ目を離してしまったのだろう」という「後悔と悲しみ」の思いと、殺害した者を「赦すことは出来ない」、「復讐、怒り」の思いが心に生じたのです。そのような出来事と思いから、なによりも大きなテーマとして「赦すことができない」、という苦しみを感じました。

 映画では、最終的に、様々な問いかけから、「赦す心」を与えられていくのですが・・・そこには、「裁くことができるのは神様しかいない」こと、「人間は誰もが同じように罪人であること」、そしてその「罪人である人間を、裁き主である神様が愛してくださっていること」が教えられていくのです。

 

2:  ものさしの違い 

 さて、今日の聖書に目を向けていきたいと思いますが。聖書ではこのように言います。

 7:1 「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。7:2 あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」(マタイ7:1-2)

 この「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。」(1)という言葉は、人間社会の教訓的な言葉としても、普通に受け取ることができる言葉だと思います。ある意味、特に、信仰を持っていなくても、生きるための知恵としても聞くことができるでしょう。ことわざでも「人のふり見て、わがふり直せ」という言葉があるように「他者を見て批判する前に、自分のことをまず見てみなさい。」という教えは、この世の教訓として教えられているのです。

 実際、私たちは、ほとんどの人が、自分に甘く、他人に厳しくなってしまうというところがあるのではないでしょうか。だれでも自分のことはさておき、他者の行いの失敗を探しだし、批判してしまうところがある者なのではないでしょうか。この行動においては、ただ誰かに厳しいこと、甘いことが一番の問題なのではないと思うのです。問題は、自分を見るものさしと、他人を見るものさしが違うということです。自分にも他人にも同じものさしで見ることが出来ていれば、それが甘くても、厳しくても、それほど大きな問題ではないと思うのです。一番の問題は、他人を見る目、そのものさし、そのはかり、その裁きの基準と、自分を見るものさし、裁く基準が違うということです。そして、このものさしの違いが、この世に差別を生み出し、人を傷つけ、他人を陥れる、そのすべての罪の根源となっているとも言うことができるのです。

 皆さんは、今、自分の存在をどのように思っているでしょうか。また、同時に、隣にいる人の存在をどのように思っているでしょうか。

 

 最近の私の身近なところでは、自分の子どもとの関係や、幼稚園もあるので、幼稚園における保護者と子どもの関係から、大人と子どもの関係において、相手を見るものさしの違いがあることを強く感じるのです。大人の立場から見てみれば、大人は子どもには「ケンカはしてはいけません」「おもちゃは取り合うのではなく、順番につかいなさい」そして「友達、兄弟とは仲良く、ケンカをしないで、必要なものは分け合い、お互いに助け合いなさい」と、よりよい社会生活ができるようになるためにと、いろいろと教えようとするのです。しかし、実際に大人になった自分たちを見てみれば、この世の中は、ものの取り合い、ケンカばかりの社会なのではないかと思わされるのです。幼稚園や小学校では「一緒に頑張ること」「助け合うこと」「隣の人を大切にすること」を学んできたはずなのに・・・そのように教えている者、私も含め、子どもから大人へと成長したはずの、大人が、大人になればなるほど、頑固で人の言葉に耳をかすことができなくなり、平気でうそをつき、人を傷つける者となってしまっている。しかも、知恵がついただけ、その手口はずるがしこく、言い訳は上手になってしまっている。いろいろなことを学び、知恵を得て、「共に生きる」のではなく、「お互いを陥れる者」となってしまっている。そのような現実を見るのです。特に、現在社会では、政治家という「権力を持つ者」、学校の教師など「人にものを教える者」が、嘘をつき、だれかと一緒に喜ぶことではなく、自分の事ばかりを考えている。まさに、子どもでいえば、「すべてのおもちゃを自分のものとしようとしている」。そのような姿を見るのです。

 子どもには「他者を大切に」「仲良く生きること」を教えながら、自分はまったく違う価値観「人をけり落としてでも、自分のだけはよりよく生きる」という価値観に生きているのです。

 

3:  正しいものさし 「愛」

 人を正しく裁くことができる方。すべての者に対して同じものさしをもって、裁くことができる方。それは、大人や教師、政治家や偉い人でもなければ、小さな子どもでもありません。先ほど、「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。」(1)という言葉は、人間社会の教訓的な言葉としても受け取ることができる、と言いましたが、だから気を付けて、他者と自分を見る目を、同じように見るようにしようと努力することは大切なことです。しかし、だからといって、人を見る「ものさし」と自分を見る「ものさし」を同じようにすることは人間にはできないのです。それが人間の限界なのです。

 人を正しく裁くことができる方。それはただ完全な愛の方、イエス・キリスト一人です。イエス・キリストは「愛」を持って、すべての人間を裁かれるのです。イエス・キリストにとって、すべての人間は、自分にとって大切な、大切な、存在なのです。そしてそのような大切な存在として向き合ってくださるのです。イエス・キリストはすべての人間に対して同じものさしをもっておられるのです。そして、そのものさしは、人間の存在を愛している、「愛」というものさしです。

 

 今日の箇所の言葉は、もともとは、マタイ5:43~48の後に置かれていた言葉であると言われています。マタイ5:43からの言葉というのは一言で言うとイエス様が「敵を愛しなさい」と言われた箇所です。

 5:43 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。5:44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。5:45 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(マタイ5:43~45)

 イエス様は「敵を愛しなさい」と言われました。そしてイエス・キリスト自らが先頭に立って「敵を愛された」のです。これがイエス様の持っている「ものさし」「裁きの基準」です。キリストは、私たちすべての人間を差別することなく、愛された。それは正しい者も、正しくない者も、悪人も、善人も関係ないのです。すべての者を愛されている。それがイエス・キリストという「裁き主」の持たれているものさしです。そして、だからこそ、イエス・キリストは、わたしたちにも「敵を愛しなさい」「互いに愛し合いなさい」と言われているのです。イエス様は「お互いに裁き合う」のではなく「お互いに赦し合いなさい」と教えられているのです。

 

4:  神の裁きを受け入れない者

 今、私たちは、どのように生きる道を選んでいくのでしょうか。お互いに赦し合い生きていくのでしょうか。それともお互いを裁き合い生きていくのでしょうか。6節ではこのように語ります。「7:6 神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」

 この言葉は、マタイによってここに挿入された言葉とされています。つまり、マタイなりに、必要があり、意味があるから、この言葉をここにもってきたのです。神様はその身をもって、私たちを赦し、愛されました。これが神様の福音です。しかし、当時のマタイの教会では「偽預言者」といわれる人々、この「キリストの愛」を知りながらも、福音を受け入れないだけではなく、この福音を使い、人々を惑わす人々がいたのです。まさに「神聖で真珠のように輝く福音を、踏みにじった」のです。主イエス・キリストは「愛」をもって、私たち人間を裁き、赦してくださいました。

 わたしたちが「神様の救い」に与るということは、このイエス・キリストの愛の裁きを受け取ることです。自分の弱さ、他者の弱さを受け入れ、それでも愛してくださっている神様の愛を喜ぶことです。そして「イエス様の愛」をいただいた者として、お互いに赦し合い、励まし合い生きていこうとする。その心の決心に、「神の救い」「神様の愛」が始まるのです。しかしまた、私たちは、救いを受け取らないことも選ぶことができるのです。「すべての者を愛されている」その、神様の愛に従わない道を選ぶこともできる。そして、それが罪に生きることです。私たち人間が罪に生きることは、このイエス・キリストの愛の裁きを受け入れないことなのです。怒りに燃え、他者を裁いていくこと、また、自分の弱さやむなしさから自分の存在を否定してしまうこと。自分の勝手なものさしで、自分を裁き、他者を裁いていくこと。神様の愛を受け入れないこと。この生き方が、人間の、ある意味、本当にただの人間としての生き方なのです。

 

5:  裁くのではなく赦しを

 私たちは神様の愛を受け入れ、お互いに赦された者として生きていくのでしょうか。それとも、神様の愛を投げ捨て、自分の裁きによって人を裁いていくのでしょうか。神様は、私たちが「赦す」ように、赦しあう者となるように、愛して導き、教え、求められているのです。そして、「裁き」が「赦し」となるために、イエス・キリストを通して、その「愛」を示されたのです。「裁くこと」。それは、お互いの関係を断ち切ることです。お互いの弱さ、お互いの違いを受け入れるのではなく、その違いによって、お互いの関係を断ち切ってしまうことなのです。そして「赦すこと」は、その断ち切れた関係をもう一度つなぐことです。神様からすれば、私たち人間は、神様から何度も何度も離れていく者でしょう。自分のしたいことをし、自分を中心に生きて、他者のため、他者を愛するように生きていくこがなかなかできない、弱く、自己中心な者なのです。人間は、神様の愛から何度も離れてしまいます。言い方を変えると、人間が神様を「必要ない」と裁いているのです。そのような人間のために、神様は、このイエス・キリストをもって、何度でもその関係をつないでくださるのです。イエス・キリストによる愛。それは「神様との関係をもう一度つなぐこと」です。そしてそれはまた「人間と人間の関係を何度もつなぐこと」のためにでもあるのです。

 わたしたちは今、主イエス・キリストの「互いに愛する」という、神様の愛の裁きを受け取っていきたいと思うのです。 それは、心の中に「怒り」や「憎しみ」が生まれたときこそ、是非、わたしたちは、その自らの意志をもって、「あなたの愛をいただきます」という道を選び、愛し合い、赦し合うという道を進んでいきたいと思います。わたしたちはイエス・キリストによって愛され、赦されているのです。この赦しを心にいただき、お互いに愛し、赦し合う者とされていきましょう。(笠井元)

2018年

7月

13日

2018.7.15 「裁きではなく赦しを」(要約) マタイによる福音書7:1-6

1:  アメイジング・ジャーニーから

 第一回の青年会では映画鑑賞を行いました。「アメイジング・ジャーニー」という映画を見ました。私はこの映画から「裁くことができるのは神様しかいないこと」、「人間は誰もが同じように罪人であること」、「罪人である人間を、裁き主である神様が愛してくださっていること」を教えらました。

 

2:  ものさしの違い 

 今日の「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。」(1)という言葉は「人のふり見て、わがふり直せ」という言葉があるように、この世の教訓としても教えられているのです。問題は、自分を見るものさしと他人を見るものさしが違うということです。大人は子どもに「友達、兄弟とは仲良く、必要なものは分け合い、お互いに助け合いなさい」と教えます。しかし、現在社会では、政治家という「権力を持つ者」、学校の教師という「人にものを教える者」を先頭に、子どもで言えば「すべてのおもちゃを自分のものとしようとしている」のです。

 

3:  正しいものさし 愛

 人を正しく裁くことができる方。すべての者に対して同じものさしをもって裁くことができる方。それはただ完全な愛の方、イエス・キリスト一人です。イエス・キリストはすべての人間に対して同じものさしをもっておられるのです。そのものさしは「愛」というものさしです。

 イエス様は「敵を愛しなさい」と言われました。これがイエス様の持っている「ものさし」「裁きの基準」です。キリストは、私たちすべての人間を差別することなく愛された。それは正しい者も、正しくない者も、悪人も、善人も関係ないのです。

 

4:  愛の裁きを受け入れない者

 当時のマタイの教会では偽預言者といわれる「キリストの愛」を知りながらも、福音を受け入れないだけではなく、福音を使い、人々を惑わす人々がいたのです。わたしたちが神様の救いに与るということは、このイエス・キリストの愛の裁きを受け取ることです。そして、私たち人間が罪に生きることは、このイエス・キリストの愛の裁きを受け入れないことなのです。

 

5:  裁くのではなく赦しを

 裁くことは、お互いの関係を断ち切ることです。そして赦すことは、断ち切れた関係をもう一度つなぐことです。神様はイエス・キリストをもって関係をつないでくださるのです。それは人間と人間の関係をつなぐためです。心の中に「怒り」や「憎しみ」が生まれたときにこそ、わたしたちは愛されている者として、自らの意志をもって「あなたの愛をいただきます」という道を選び赦し合う道を進んでいきたいと思います。(笠井元)

2018年

7月

12日

2018.7.11 「神を畏れる」  出エジプト記20:18-21

1 十戒の意味 自由

 十戒は序文「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(20:2)という言葉から始まります。つまり十戒はまず、神様の救いがあり、その救いに応答して生きるための十の導きの言葉なのです。

 神様はイスラエルの民を、奴隷という立場から救いだし、解放してくださった。それは救いの終わりではなく、救いの始まりの出来事でした。救いが始まり、そして救われた者がどのように生きていけばよいのか。神様はその道を「十戒」で示されたのです。

 

 辞書では自由は「勝手気まま」「自分の意のままに」「強制、拘束などうけない」「主体的に自分自身の本性に従う」ことと記されていました。聖書の教える意味での「自由」というのは、自分がしたいことがなんでもかんでも好き勝手にできることを意味していません。聖書が教える「自由」は神様に対して「従順」であることす。

 「6:20 あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。」(Ⅰコリント6:19-20)、「召された自由人はキリストの奴隷なのである。」(Ⅰコリント7:22-23)

 神様は十戒という律法によって人間を束縛したのではなく、十戒に従うことによって本当の自由、神様に従う恵みを与えられたのです。

 

2 「畏れ」と「恐れ」(18-20)

 この18節の情景は十戒の前の19章に続くものということができます。神様が現れる情景を、雷鳴と稲妻、角笛の音、そして山が煙、厚い雲に包まれたという形で記されているのです。イスラエルの民は、この情景に恐怖したのでしょう。そして神様という存在に「畏れた」のです。

 私たちは神様を恐怖として「恐れている」でしょうか。それとも畏敬の念として「畏れている」でしょうか。「おそれ」の違いは、神様との関係、つまり私たちの信仰を表しているのでもあります。

 

神様を「畏れ敬う」時、それは、自分の分をわきまえて、創造主である神様、そして救い主である神様の存在を知ることです。人間は「畏れ」「従順」に仕える者とされるのです。

3 畏れて従う関係

 ここでは「畏れ」は「罪を犯させないようにするため」だと言います。「罪がなくなる」とは言っていないのです。つまり、決してこの十戒を破ることがないということではなく、「主を畏れる者」となることを教えているのです。

神様はイスラエルの民を救い出しました。それは「恐怖の恐れ」から「敬う、畏れ」への導きです。十戒は、戒めを守ることを命令しているのではなく、救いに与り、喜んで生きることが出来るための「ものさし」です。今日の箇所は、その神様との関係が表されているのです。(笠井元)

2018年

7月

07日

2018.7.8 「キリストに捕えられて進む」(要約) フィリピの信徒への手紙3:12-16

 「完全」という言葉で皆さんは何を考えるでしょうか?『広辞苑』という辞書では「すべてそなわっていて、足りないところのないこと、欠点のないこと」を意味しています。フィリピ教会の中で、「すでに得た」とか、「すでに完全な者となっている」と主張する信徒、あるいは指導者たちがいたようです。

 

1.フィリピ教会に、「完全」であることを誇る人たちがいた!?

 

2.キリストに捕えられている

 人間というものは、何かを追い求めて、何かを得ようとして生きるものです。目標がないと情熱の方向性が定まらず、生きられないのでしょう。それは確かでしょう。しかし、パウロは、「自分がキリスト・イエスに捕えられている」、その動かない事実が大切で、その上で、捕えようという動機付けになっている、と言います。

 

3.目標を目指して

 パウロは競争するランナーの譬えを用いています。「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞をえるために、目標を目指してひたすら走ることです」。少々進み具合は遅くとも、目標を目指して進むことが大切です。

 

4.「賞」を得るために

 「キリスト・イエスにおける、神の上への召しの賞品」とは、「上への召しという賞品」ということで、復活においてキリストと一つになることでしょうか。「神の上への召しがもたらす賞品」ということで、「救いの完成」ということになるでしょうか。

 

5.後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けながら

 過去を忘れる単なる「未来志向」は浅薄な生き方でしょう。しかし、自分の過去にまつわる失敗とその因縁に脅かされることも愚かなことです。過去を悔いるのではなく、失敗から学んで、希望をもって、前方を目指して生きることが大切です。いままで、自分の成し遂げた業績をいたずらに振り返るのでなく、はるかに勝った、神から来る天への召しを希望して生きるのです。

 

6.「到達したところに基づいて進む」

 もし、クリスチャンで自分は完全であると思う人がいるなら、それは自分が完成途上にあり、不完全であることを自覚している人のことです。「いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進む」と言います。素敵な言葉ではないでしょうか!(松見 俊)

2018年

7月

07日

2018.7.8 「キリストに捕えられて進む」(全文) フィリピの信徒への手紙3:12-16

 「完全」という言葉で皆さんは何を考えるでしょうか?『広辞苑』という辞書では「すべてそなわっていて、足りないところのないこと、欠点のないこと」を意味しています。この世に存在するものでは、円(丸)や(地球のような)球体をイメージするでしょうか。あるいは円運動ということで「ろくろ」がイメージされます。粘土で完璧な左右対称というか美しいかたちを造るわけです。皆さんの中に陶器を焼いている方がおりますが、とても美しい湯飲茶碗をいただきました。どうも、フィリピ教会の中で、「すでに得た」とか、「すでに完全な者となっている」と主張する信徒、あるいは指導者たちがいたようです。今日では、そのように主張する人はあまりいないかも知れない。かつて、私が東京の大学生時代、ミッションスクールの「東京女子学院」の卒業生の女性が、学校で習ったキリスト教で、キリスト教のくだらなさを知っていると豪語する人がいました。そのようなことを言う声が聞こえてきました。聞き捨てならないということで、「キリスト教について何か問題があれば、屋上へ来なさい。私が毎日、そこで、聖書の話をしているから」と言いました。1970年代前後の学生運動もどこか完全なものを求めて、既存のものを全部批判・否定してしまい、結局挫折してしまったような気がしています。神学部の同級生で全盲の田中聞多さんという人がおりました。、彼は学生たちの徹底的な反対運動に直面して、ヘブライ語の伝道の書(コヘレトの言葉)7:16の言葉を引用してくれました。「あなたは義に過ぎてはならない。また賢きに過ぎてはならない。あなたはどうして自分を滅ぼしてよかろうか」。盲目という大きなハンディキャップのある方でしたが、味のある聖書個所を引くものだとつくづく感心しました。当時は正義が肩をいからせ、風を切って闊歩するような、そんな雰囲気であったのでしょう。自分が完全であると主張する人は、東福岡教会にはいないと思いますが、「信仰ってこんなもんだ」と考えがちな人は私を含めて、信仰歴何十年という信徒たちは問題であるかもしれません。今日はクリスチャンの「完全」とはどのようなものかに焦点を当てて聖書テキストを味わってみましょう。

 

1.フィリピ教会で「完全」であることを誇る人たちがいた!?

 パウロは、12節で、「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とか捕えようと努めているのです」と言います。パウロは、「自分は違う」というのですが、どうもフィリピの教会の信徒たちあるいは指導者たちの中に、自分たちはクリスチャンになって、もう「完全だ」と主張する人たちがいたようです。15節でも、「だからわたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです」と言い、「完全」という言葉が登場します。この言葉は「目的」あるいは「目標」(telos)という言葉から由来しておりまして、完全というのは目的・目標に到達している状態を意味しています。ある意味でクリスチャンは人生の目的・目標である神様、神様の愛を示し、生きて下さったイエス様を知らされているわけですから、人生の目的・目標を知っているとも言えるわけです。このような人々はコリントの教会にもいたようですから(Iコリント2:10参照)、混迷の時代にクリスチャンになった喜び、熱狂がこのように考えるようになる素地がこの時代、この地域にはあったのかも知れません。わたしたちの生きる社会では、不完全であること、あの人たちのように生きられないと考えて生きにくくなる人たちがいるとともに、自分は「完全な者だ」と主張して群れに問題を起こす人たちもいるのです。そして、どうやらそのような人たちの方が大きな問題を引き起こすのです。要注意です。ともかく、「既に得た」、「既に完全な者とされている」と考える人たちがいたのです。

 

2.キリストに捕えられている

 パウロは、「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕えようと努めているのです。自分がキリストに捕えられているからです」と語ります。「得ようとする」(lambano)、「捕えよとする」(katalambano)、「努める」(12節)、「得るために」(14節)(共にdeōkō追い求める)と同じような言葉が重ねられ、そして、「完全な者になる」つまり、「目標に到達する」(teteleiōmai)と続いています。人間というものは、何かを追い求めて生きるものなのです。目標がないと生きられないのでしょう。それは確かでしょう。しかし、パウロは、「自分がキリスト・イエスに捕えられている」、その動かない事実が、捕えようと言う動機付けになっている、と言います。捕えようとする姿勢や努力があって、目標に到達するのではなく、キリストにと絶えられているという安心に根差して、捕えようと努力すると言います。キリスト者の歩みは、「完全ではない」という否定形だけではなく、「キリストに捕えられた」という決定的事実に根差して、目標を目指して、捕えようと努める人生なのです。米国のバプテストにリック・ウオーレンという人がいて、成功した大きな教会の牧師さんです。彼は「目的に駆り立てられているキリスト者」(パーポスドリブンライフ)というか「目的目指して駆り立てられている教会(パーポスドリブンチャーチ)というものを提唱して日本でも人気がないわけではありません。長崎教会時代の友納靖士先生などが取り入れて教会形成をしています。クリスチャンには神から与えられた使命・目的がある、教会も当然神から与えられた使命・目的があるということはその通りなのですが、あまりに目的合理的で、お尻を叩かれると、どうも息が詰まるし、何かを見落としてしまう、割り切ってしまう危険があると思います。毎日、毎月、毎年の目標を決め、それに向かって励むことは必要ではありますが、「キリストに捕えられている」ということが決定的に重要なのです。が上から召して下さるという大きな目標を忘れてはならないであろう。パウロはこれを過去の確かな事実を表現する過去形で語っています。((katelēmphthēn1per.s.aor1.ind.pass.

 

3.目標を目指して

 パウロは13節から14節で、競技場で競争するランナーの譬えを用いています。「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞をえるために、目標を目指してひたすら走ることです」。「目標を目指して」(kata skopon)とは、弓矢の「的(mark)」のようなもので、運動場の競技では、ゴールにある白いテープのようなイメージでしょうか。ここで、「ひたすら走る」とありますが、原語には「ひたすら走る」というような言葉はなく、ただ「ゴールを目指して、賞を得るために追い求める」とあるだけです。だんだん、老化が進みますと、歩くこともままならず、「走る」となるともうだめです。ですから、説教題も「キリストに捕えられて歩む」にしたのですが、ちょっと弱いかなと思って、「キリストに捕えられて進む」にしたのですが、ともかく聖書には「走る」という言葉は使われていません。少々進み具合が遅くとも、目標を目指して進むことが大切であると思います。これは走るのがもはや苦手な私の考え方ではなく、16節では、「到達したところに基づいて進め」とあり、ここでは、隊列を組んで進むこと(stoichein)ですから、このイメージを採用したわけです。目標を目指して進むのです。

 

4.「賞」を得るために 

 私たちは、いったい、何を目指して走ったり、進んだりするのでしょうか?私たちの人生の目標は何でしょうか? 興味深いことに、12節で、「わたしはそれを得たとかいうのではなく、既に完全な者になっているわけでもありません」と言われていますが、実は「それ」という言葉はありません。しかし、14節では「賞」(brabeion)と言われています。オリンピックなどで、日本選手が「金メダル以外はメダルではない」などと言うのを聞きますと、そうかな、近代オリンピックを始めたクーベルタンは「参加することに意義がある」と言ったと小学校で教わったはずなのにと思ってしまいます。それはともかく、「賞」とはどのようなものなのでしょう? 原文をそのまま翻訳すると、「キリスト・イエスにおける、神の上への召しの賞品」となります。神が上への召して下さることが賞品なのだと言うことで、復活においてキリストと一つになることが賞であることになります。あるいは、「神の上への召しがもたらす賞品」と言う意味にも取れますので、「救いの完成」ということになるでしょうか。まさに、神を信じている者として、完全に神を信じ切る者になるということでしょう。

 

5.後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けながら

 まあ、ゴールが前方にあるのですから、後ろのものを忘れ、前方を向いて進むことは当然でしょう。しかし、過去のことを忘れる単なる「未来志向」は浅薄な生き方でしょう。しかし、自分の過去にまつわる失敗とその因縁に脅かされることも愚かなことです。過去をただ悔いるのではなく、失敗から学んで、希望をもって、前方を目指して生きることが大切です。いままで、自分の成し遂げた業績をいたずらに振り返るのではなく、はるかに勝った、神から来る天への召しを希望して生きるのです。私たちは、単に未来に幻想を抱き、現在なすべきことを先送りするのではありません。将来の救いの完成へと身を伸ばし、今行うべきことを坦々となすのです。過去の後悔ではなく、感謝と悔い改め、未来への幻想ではなく、将来の希望に生きるのが信仰者の姿です。

 

6.到達したところに基づいて進む

 もし、クリスチャンで、自分は完全であると思う人がいるなら、それは自分が完成途上にあり、実に不完全であることを自覚している人のことです。ジョン・ウェスレー(1703-1791)は弟のチャールス・ウェスレー(1707-88)と共に、イギリスにおいてメシジスト運動を起こしました。キリスト者が少しでも内実のある信仰を持つようにと、人格的、信仰的清めを強調する運動です。それが現在ではメシジスト教会となり、関西学院、青山学院、そして福岡女学院がメソジストの伝統を汲んだ教育機関です。彼は、『キリスト者の完全』という本を書いています。キリスト者の完全とは、不完全であることを自覚していること、だからいつも隣人に祈られており、共に、聖書を読もうとする姿勢で生きることが大切です。クリスチャンの完全について他の考えを持っている人がいるかも知れない。パウロはそれを認めます。しかし、「いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進む」と言います。素敵な言葉ではないでしょうか?口語訳は「ただ、わたしたちは、達し得たところに従って進むべきである」でした。自分がどれだけ完全か、不完全かではなく、キリストにしっかり捕らえられていること。この捕えられの中で、達し得たところに従って進むのです。完璧な信仰ではなく、葛藤があり、闘いがあること、それを受け入れてなお進むのです。もしバプテスマを受けることや転入会に躊躇している方があるとすれば、それはいまだ自分の力に頼って救いを獲得しようとする誤った考え方に囚われているのです。キリストに捕えられている、キリストに知られている、キリストに愛されている、キリストに信じられている。それで充分です。だからこそ、追い求め、知り、愛し、信じようと努めるのです。この順序を間違えないようにしましょう。愛されている、捕えられている、だから、愛そうとし、捕えようと達し得たところに従って進むのです。(松見俊)