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2019年

7月

20日

2019.7.21 「主はそこにもいます」(要約) 詩編139編

 今後の日本社会を左右するような参議院議員選挙の投票日、今朝は説教のテキストとして詩編139編を選びました.この詩編は、5つに分けられます。16節は、主なる神はすべてをご存知であるという全知(omniscience)について、712節は、主なる神はどこにでもおられるという遍在(omnipresence)について、1318節は、天地万物を造られた創造主について、1922節は、主なる神に敵対する者について、そして、最後は、2324節で、静まって、自分の心を見つめる、反省・内省ことです。

 

1.主なる神の全知

 聖書は「主なる神は何でも知っておられる」と言います。これは、何か抽象的なことではなく、「主なる神は私を私以上に知っていて下さるということです。」私たちは自分こそ自分のことを良く知っていると考えています。しかし、詩人は1節で「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる」と告白します。これは慰めに満ちた信仰告白です。

 

2.主なる神の遍在

 自分の醜さ、弱さを知った時、私たちはどこかに逃げ出したくなります。しかし、主なる神はどこにでもおられるのです。たとえ、暗闇が支配し、陰府に横たわるような経験をしたとしても神はそこにもおられるのです。

 

3.わたしの創造者なる神

 天地万物を造られ、すべてを知り、いずこにもいます主なる神、この偉大な神がこの私を創造されたのです。「あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立ててくださった。」私が存在する以前に、私は主なる神の慈しみのみ心の中に存在しており、私が一日も生活する前に、私の一生はすでに主なる神に知られているのです。

 

4.神に敵対する者

 この主なる神の大きさ、圧倒的な愛の深さ、広さを知る時、それにもかかわらず、主なる神に敵対する者たちが存在しているのも事実です。しかし、私たちキリスト者は、微力ながらも正義と平和のため、愛のために闘わねばなりません。

 

5.内省

 敵対する者らに心奪われ、乱される中で、私たち自身のことを祈りにおいて反省・内省することを勧めています。私たちもこの詩人と共に、「その驚くべき知識はわたしを超え、あまりにも高くて到達できない」と主なる神を賛美しましょう。

(松見俊)

2019年

7月

20日

2019.7.21 「主はそこにもいます」(全文) 詩編139編

 新約聖書には283回、旧約聖書が引用されていると言われています。その中の41%に当たる

 

 116回が詩編からの引用です。それ程、詩編は初代のキリスト教会で読まれ、歌われていましたし、イエス様もたびたび詩編を引用されました。宗教改革者ルターやカルヴァンも詩編を好み、詩編の註解や説教をしています。新約聖書にも詩編付きというのがありまして、現在でも詩編は多くのクリスチャンに慰めを与えています。私も詩編が好きで、何度となく読んでいます。なぜ好きであるかと言えば、そこには、人間の「なまの声」が響いているからです。歌とは元来、人間のなまの声ではないでしょうか。苦しい時は苦しいと叫び、悲しい時は悲しいと祈り、孤独の時は寂しいと歌う。神が分からなくなったら、神が分からないと嘆きます。楽しい時、喜ばしい時にむろん人は神を賛美するのですが、悲しい、苦しい、寂しいという叫びもまた、神に向かう限り賛美になっているのではないでしょうか。

 そのような詩編の中でも素晴らしいものが、今日、司会者に読んでいただいた詩編139編です。今朝は説教のテキストとして詩編139編を選びましたが、この詩編は、5つに分けられます。1~6節は、主なる神はすべてをご存知であるという全知について、7~12節は、主なる神はどこにでもおられるという遍在について、13~18節は、天地万物を造られた創造主について、19~22節は、主なる神に敵対する者について、そして、最後は、23~24節で、静まって、自分の心を見つめる、反省・内省です。

 

1.主なる神の全知

 古い話ですが、1958年平尾昌晃の歌で「星は何でも知っている」という流行歌がありました。「星は何でも知っている。ゆうべあの子が泣いたのも、かわいいあの娘のつぶらな その目に光る露のあと」というものです。私が小学6年生のころの歌です。「ユーチューブ」いうのを知っている若い人は一度聞いて下さい。「星は何でも知っている」ではなく、聖書は「主なる神は何でも知っておられる」と言います。神の全知(omniscience)と言います。これは、何か抽象的なことではなく、「主なる神は私を私以上に知っていて下さるということです。」私たちは自分こそ自分のことを良く知っていると考えています。しかし、詩人は1節で「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる」と告白します。また、14節後半で「御業がどんなに驚くべきものか わたしの魂はよく知っている」とありますが、口語訳聖書では「あなたは最もよくわたしを知っておられます」と翻訳しています。主なる神は、私が、そして皆さんが「座るのも立つのも知り、(ちょっと膝が痛いのも知ってくださり)、遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分けわたしの道にことごとく通じておられる。」私たちは心で思っても、言葉で言わなければそれを他人に知られることはありません。いや分からないと思い込んでいます。しかし、「わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる」と歌われています。」このことは本当に私たちを慰めます。最近、「自己評価不安」ということが問題になっています。他者が自分のことをどう思っているかが不安であり、人は自分のことを正しく評価してくれないという想いです。会社で上司が自分のことを正しく評価してくれない、部下も自分の悩みを理解してくれない。夫が妻を正しく評価してくれない、いや妻こそ自分を理解していない、学校の先生が生徒の心を見てくれない、親が子どもたちの苦労を理解していない、まさに「わたし」とはまさに他者との関係の中にあるのです。だから厄介であり、自分の想い、自分の努力を何とか知らせようとしても、それは空しい愚痴に終わったり、失望を味わうだけです。しかし、人を愛し、人から誤解されても、裏切られ悲しみを覚えても、言葉に表せない苦悩も、主なる神はご存知であるというのです。本当にわたしが「わたし」として堂々と立つためには、私を知って下さる神の前に立たねばならないのです。そして、実に、主なる神は私を知っていて下さるのです。

 しかし、考えようによっては神が私を知っておられるということは恐ろしいことでもあります。過酷な運命に弄ばれ、最終的には韓国の大統領になった金大中さんは、獄中から息子ホンオプさんに宛てた手紙の中で書いています。「第一に、私自身も罪人だということだ。万一、私が私の生涯に人知れず犯した悪しき行いと心に抱いた悪しき思いが、神のみ前に、あるいは、群衆の前に、スクリーンに映し出されるように明らかにされたら、私は、果たして顔をあげて人を見ることができるであろうか」。彼はむろん人間として政治家として、問題もあるのでしょうが、敬虔なローマ・カトリック教徒でした。今日は参議院議員の選挙ですが、このような罪人の自覚のある、だから、神に助けを求めるような政治家を選びたいものです。「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる。前からも後ろからもわたしを囲み、御手をわたしに置いていてくださる。その驚くべき知識はわたしを超え、あまりにも高くて到達できない。」この事実を恐れ、この事実に慰められましょう。「主よ、あなたはわたしを知っておられる。」

 

2.主なる神の遍在

 次は主なる神の「遍在」(omnipresence)の歌です。自分の醜さ、弱さを知った時、私たちはどこかに逃げ出したくなります。しかし、主なる神はどこにでもおられるのです。これを神の遍在と言いますが、神の遍在の教えも決して頭で考えだされたものではなありません。それは、私たちを支える恵みの教えなのです。私たちはいつも世界を二つに分けて考えます。光と闇、善と悪、聖と俗、神の支配される世界と神なき世界と言うふうに、です。あまりにも暗い世の中、悪が支配しているように見える領域、もし神が支配しておられるとすれば、それはごく一部であり、光の世界、聖なる領域だけであると考えます。そして、それらの世界がどんどん狭くなっていき、自分は暗いトンネルの中にいるように思ってしまいます。

 しかし、詩編139編は、主なる神はどこにでもおられると告白しています。「どこに行けばあなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも あなたはそこにもいまし、御手をもって私を導き、右の御手をもってわたしをとらえてくださる。」人が修行をして、高い天に登り、自らの力を誇り、神をも凌ぐような思いになったとしても、そこにはすでに主なる神がおられるのです。あるいは、やけっぱちになって、絶望して、悪ぶって、深い深い、地の底の陰府で、捨て寝を決め込んでも、そこにも主なる神はおられるというのです。朝早く、太陽が大空に広がっていく、あの速さで、海の果て(当時のこの世界では地中海でしょうか)に逃れようとしても、気が付けば主なる神はそこにいますと歌われます。皆さんは、孫悟空が世界の果てまで行って柱に立ち小便をしてきたと言っても実は仏様の手の平を動いていたというのに似ていますね。三蔵法師がそのように孫悟空をたしなめるのです。私たちが、ここには主なる神はおられないと言い張る処、絶望して、どうにでもなれ、「やみはわたしをおおい、わたしを囲む光は夜となれ」(口語訳)と言っても、「あなたには、やみも暗くはなく、夜も昼のように輝きます。あなたには、やみも光も異なることはありません。」と歌われています。新共同訳では「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼と共に光を放ち、闇も、光も、変わるところがない。」と翻訳しています。同じような信仰がイザヤ45:7にも登場します。「光を造り、闇を創造し、平和をもたらし、災いを創造する者、わたしが主、これらのことをするものである。」(1135頁)。神は光と平和だけを創造するという信仰と、絶望的と思われる状況の中においても、主なる神は、闇をも災いをもコントロールされているという信仰とどちらが良いでしょうか。良く分かりません。「闇も、光も、変わることがない」。「やめてくれ、糞と味噌を一緒にしないでくれ」と思うでしょうか。あるいは、主なる神は、天におられ、光の中にのみいますのではなく、陰府にも、闇の中にもいます。神の恵みはあまねく、闇も光も異ならない。主は決して闇を闇として放置されず、「光あれ」と語りかけられるのです。ここに聖書が証しする最も深い信仰が描かれているのではないでしょうか。

 

3.わたしの創造者なる神

 天地万物を造られ、すべてを知り、いずこにもいます主なる神、この偉大な神がこの私を創造されたのです。「あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立ててくださった。」私が存在する以前に、私は主なる神の慈しみのみ心の中に存在しており、私が一日も生活する前に、私の一生はすでに主なる神に知られているのです。「胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている。まだその一日も造られないうちから。」私が過去、神を知らずに過ごしていたことも、神を無視して生きていたことも、やがて時がきて信仰を持つようになったことも、そして、主なる神に忠実に生きようとしてしばしば挫折し、しかし、主なる神に従おうとしている今も、将来あるいは躓き悲しみの経験し、にもかかわらず、救いの完成に与るようになることもすでに知られているのです。

 

4.神に敵対する者

 この主なる神の大きさ、圧倒的な愛の深さ、広さを知る時、それにもかかわらず、主なる神に敵対する者たちが存在しているのも事実です。血を流し、神をあなどり、思い高ぶり、悪を行う人たちがいるのです。しかし、私たちキリスト者は、微力ながらも正義と平和のため、愛のために闘わねばなりません。

 

5.内省

 しかし、他者や世界をあれこれ言う前に、大切なことは、主なる神を畏れ、不義を憎む私たち自身がどのような状態であるかということです。「神よ、わたしを究め、わたしの心を知って下さい。」と最初の1節の表現の繰り返しです」。「わたしを試し、悩みを知ってください。御覧ください。わたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうか、わたしを とこしえの道に導いてください。」この祈りは、敵対する者らに心奪われ、乱される中で、私たち自身のことを祈りにおいて反省・内省することを勧めています。主なる神ご自身が私たちを探り、知り、審いて下さり、赦してくださるように祈らねばなりませんし、祈ることが赦されているのです。

 そして私たちもこの詩人と共に、「その驚くべき知識はわたしを超え、あまりにも高くて到達できない」と主なる神を賛美しましょう。(松見俊)

2019年

7月

13日

2019.7.14 「愛をいただき、愛する者とされる」(全文) マタイによる福音書12:33-37

1:  間違えてしまう人間

 先週学びました、12章22節からの「ベルゼブル論争」において、ファリサイ派の人々は、イエス様の癒しの業を「悪霊の頭ベルゼブルの力」(24)によるものだと非難したのでした。ファリサイ派の人々は12章10節において、「イエス様を訴えるため」に、片手の萎えた人を連れてきて、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」(12:10)と尋ねたのでした。このとき、ファリサイ派の人々は、片手のなえた人を「癒してもらおう」としてイエス様のところに連れてきたのではなく、「イエス様を訴えよう」と思って、片手のなえた人を引っ張り出してきたのでした。ファリサイ派の人々は、手が動かないため苦しい思いをしている人を、自分たちの主張のための道具としたのでした。このようなファリサイ派の人々を、イエス様は34節において【12:34 蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間である】と言ったのでした。

 そして、イエス様は【12:33 「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。」】と言われたのでした。このような言葉を聞くなかで、私たちが、他者に向けて「あなたは悪い木であり、あなたの実は悪い実である」ということは、私たちが他者を断罪していることになります。確かにイエス様は、ファリサイ派の人々に向けて、そのように言われました。しかし、このイエス様の言葉は、人を断罪するためではなく、「あなた方は間違っている」ということを教え、正しい道に立ち帰るために、示された、救い主イエス・キリストの言葉であるのです。私たちは、このイエス様と同様の立場にいるのではありません。私たちもまた、イエス様に「あなたは大丈夫ですか」「間違っていないですか」「あなたは悪い実を結んでいないですか」と問われている者なのです。

 

 わたしは小さい頃から、よく父親から「人間は必ず間違いを犯す者だ。どれほど正しいと思っている道を進んでいても、社会的に正しいと思われることを主張していたとしても、人間は必ず間違えることがある。絶対に自分は正しと思ってしまって、他の意見を聞かないということがないように気を付けなさい」といわれました。「そしてそれは、特に、誰から見ても正しいと思う行為をしているときに、一番気を付けなさい。いつも自分を、そして自分が生きている社会を点検して。神様の御心、聖書の御言葉に従っているかどうかを、いつも点検していなさい」と言われました。

 それは、たとえばですが「戦争反対」とデモをする時だとしても、また教会で「伝道しよう」「互いに愛し合おう」として福音伝道を行うことも、幼稚園でいえば「キリスト教保育」として「ひとりひとりを大切にしよう」と、普通に聞けば正しいと思うことでも、・・・それでも人間が続けていく中では、間違えてしまうことがあるということです。

 

 実際に、日本は戦時中は、「天皇のために戦争をすること、死んでいくことが正しい」とされていたのです。日本にいて、そのことに疑問を持つ人はほとんどいなかったでしょう。また、9.11という大きなテロ事件の後、アメリカは報復行為として戦争を始めていきました。その時、戦争をしていくことが「正しい」と思った人は、数多くいたと思います。また、広島、長崎に原爆が落とされた行為も、「戦争を終わらせる必要なことだった」と言われているとも聞いています。日本では、日本の立場の価値観で教育をしています。それがすべて正しいわけではないのです。そして、今、自分が正しいと考えていることは、あくまでも、この時代、この場所における、人間の造りだした価値観によるものであるということを、覚えておきたいと思うのです。物事を立体的に見ることはとても難しいことです。一つの目線からしか物事を見ることができない者、そのような価値観に陥ってしまう者、それが人間です。そしてだからこそ、人間にはイエス・キリスト、そして神様の御言葉が必要なのだということです。

 私たちは間違ってしまう人間です。ただ、だからといって自分の存在を否定したり、悲嘆することはありません。神様は、そのような私たちのために、イエス・キリストを送ってくださった。私たちを愛し、どのような姿であっても、私たちの存在を喜んでくださっているのです。そして、そのような私たちに、イエス様を通して、歩むべき道を示されました。

 イエス様の教えられた道。それは「神を愛し、人を愛する」道です。そしてまた、イエス様の生きられた道。それはどこまでも「神様に従順であった道」です。イエス様は「神様に従い、神様に仕え、そして他者に仕え続けた」のでした。これが、私たちに与えられている生きる基準、判断する基準です。私たちは、自分が今、神様に与えられた基準に従い、「良い木」として「良い実」を結ぶ者として生きているか、問いなおしてみましょう。

 

2:  口から溢れ出る言葉

 イエス様はここで【12:34 蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。】また【12:36 言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。】と言われました。ここで、イエス様は、明らかに、人間が発する、その言葉について語られています。「言葉」。それは、神様からいただいている大きな恵みの一つです。

 聖書では、ヨハネによる福音書の1章1節から【1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。1:2 この言は、初めに神と共にあった。1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。】(1:1-3)と語り、「言」は神と共にあり、「言」は「神」であった。そしてこの「言」によって、世界は造られたと教えるのです。また創世記では【1:3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。】と言います。神様の世界の創造の時、最初に「光あれ」という言葉をもって、世界は創造されたのです。世界を造り、光を造り、私たちの日々を守っていてくださっているのです。

 私たち人間には、この「言葉」が与えられています。ただ、気を付けたいのは、この前の箇所にある「ベルゼブル論争」においては、「口の利けない人」が現れますが・・・口が利けること、言葉を発することができることだけが、神様からの恵みだということはありません。神様は、すべての人間に、様々なかたちで恵みを注いで下さっているのです。そのうえで、私たちに与えられている「言葉」というのは、神様からの一つの恵みの形だということができるのです。

 

 わたしたちは、この言葉を通して、様々な恵みを得ることができるのです。ただ、今日の箇所にある【つまらない言葉】という言葉は、別の訳では「不注意な」「軽率な」「無益な」言葉と訳されます。つまり、この【つまらない言葉】とは、「不注意で、軽率で・・・愛を生み出すことがない言葉」ということです。「言葉」は、人を癒し、支え、励まし、希望、愛を与えるものともなれば、間違って使えば、人を傷つけ、陥れ、惑わし、苦しめるものとなっていくのでもあります。

 最近は、特に政治家の方の失言がニュースとなっています。ある人は、「LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がないのです」と言ったり、「戦争で北方領土を取り返すこと」を言った政治家もいました。様々な言葉が報道されていますが、このような多くの失言は、その心の中から溢れ出た言葉なのではないかと思うのです。そして、これはまさにファリサイ派の人々と同じ姿なのではないかとも思うのです。

 【つまらない言葉】。その心の中にあるのは、自分が正しい、自分は間違っていないという思いです。ファリサイ派の人々は、イエス様の福音の言葉「悔い改めなさい」という言葉を聞いたときに、「自分は間違っていない」「律法の専門家である私たちが、なんで大工の子どもであるあなたなんかに。そんなことを言われなければならないのか」「あなたは何の権威をもって神様のことを語っているのか」と感じたのでしょう。ファリサイ派の人々は、「自分が正しい」「悔い改める必要はない」という思いから離れることができなかったのです。

 

3:  悔い改める

 イエス様は【4:17「悔い改めよ。天の国は近づいた」】と言って、福音を宣べ伝え始められたのです。 この言葉は、自分の心に間違った思いがあること、そして悔い改めること、つまり、新しく本当の正しさを迎え入れる必要があることを教えているのです。

 みなさんは、今、自分の心のうちを確かめてみてください。心の内側はどのようになっているでしょうか。特に、クリスチャン、一度神様を信じた方は、「自分は正しい」と思っていないでしょうか。また、クリスチャンではなくても、この社会において、権威やプライドを持っている人、ある意味、子どもから大人になっていくうちに、「自分は正しい」と思っていくようになってしまう、「自分は間違っていない」という誘惑に陥ってしまうものです。 そして、ファリサイ派という人たちは、まさにそのような立場にあったのです。律法を守り、神様に従い、神様に仕えて生きていたのです。だからこそ、「自分たちは間違っていない」という思いが余計に強く持っていたでしょう。

 そのような人間に、イエス様は「悔い改めなさい」と言われたのです。 悔い改めること、それは、自分の心に、イエス・キリストを迎えいれることです。

 この後の箇所43節からの箇所では、「掃除をして、整えた家に悪霊が住み着いた」お話が語られています。これは、心を清くし、整えた中で、その心にイエス・キリストではなく、悪霊を迎え入れてしまった人の姿を表します。正しく生きようと思い、聖くなろうとしていくときに、私たちが陥りやすいのは、心に「自分は自分の力で正しくなれる」という誘惑、悪霊を迎えてしまうことです。私たちは、どんなに自分の心を整え、きれいしても、自分の力のみでは、心の底から聖い者となることはできないのです。むしろ、そこには、「自分は間違っていない」という悪霊を迎えることになってしまうこともあるということです。私たちは、心にイエス・キリストを迎えいれることによってのみ、その心は本当の意味で、清められるのです。

 

 旧約聖書に出てきます、イスラエルの一番栄えたときの王様、ダビデ王の優れていたところは、この「悔い改める心」を持っていたことです。ダビデ王は、自分の欲望の為に、部下が死ぬように仕向けていきました。そして、その部下の妻を自分の妻としていったのです。そのようなダビデの罪を、預言者ナタンが指摘したのです。王様という権威に立つダビデであれば、そんな言葉を聞かないで、ナタンを殺してしまうこともできたでしょう。しかし、ダビデは、この指摘を神様のことばとして受け取ったのでした。そしてダビデは悔い改めるのです。

 このダビデの悔い改めた言葉として、詩編51編では「神よ、わたしのうちに清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」(詩編51:12)という言葉があります。ダビデは、神様に、「清い心を、新しく造ってください」と祈ったのでした。このときの「創造する」という言葉は、創世記の「1:1 初めに、神は天地を創造された。」という言葉と同じ「創造」という言葉を使っており、それは、まさに無からの創造、ただ神様の御心と御業によって造られるものを意味する言葉なのです。 ダビデは、罪を犯した時、自分では持つことができない、新しい心、聖い心を創造してくださいとお願いしたのでした。 

 私たちの心が清くされること。それはただ、悔い改めること、イエス・キリストを迎えることによってなされるのです。 エス・キリストは、私たち人間の心に、聖い心、神を必要とし、悔い改め、従う者として生きる心を、創造されるために、来てくださっているのです。私たちは、このイエス・キリストを心に迎えいれていきたいと思うのです。

 

4:  愛をいただく

 イエス・キリストは、私たちの内に来てくださいました。私たちが心にイエス・キリストを迎える時、そこに愛が注がれているのです。そして、そこには心から溢れる言葉が与えられるのです。私たちが他者を励まし、愛し、支えていこうとすることは、とても大切なことでしょう。しかし、頑張れば頑張るほど、自分の心が枯れてしまうことがあります。私自身もですが、幼稚園の保護者にも、子どもを愛したい、愛そうと思いながらも、自分では、なかなか愛し続けることができないことを、悩んでいくこともあります。皆さんも、自分を愛して、他者を愛して、神様を愛していこうと、すればするほど、心が苦しくなってしまうことがあるのではないでしょうか。

 愛は、神様から注いでいただくものです。愛を神様の注いでいただかなければ、その愛は、いずれ枯れてしまうのです。ダビデは、「自分の心の中に、新しく聖い心を創造してください」と言いました。私たちもまた神様によって、心のうちに聖い、愛の心を創造していただきましょう。

 

 そして、私たちは心のうちに愛をいただき、その愛を隣人と分かち合っていきたいと思うのです。 愛は、一人で生きるところには存在しません。自分ひとりで生きて、自分を愛していたとしても、それは本当の愛とは言えないでしょう。愛すること。それは隣に愛する人が必要なのです。神様は愛を表すために、父なる神と、子なるキリスト、そして聖霊なる神と、その関係において、愛を表されたのでした。そして、神様は、イエス・キリストを通して、私たちに愛を示され、溢れるほどの愛を注いでくださっているのです。

 私たちは、共に生きて、共に生活するときに、神様の愛をいただくことができるのです。そして神様の愛を本当に心から感じることができるのでしょう。今、私たちは、イエス・キリストを心に迎え、その愛をもって、共に愛をもって生きていきたいと思います。(笠井元)

2019年

7月

13日

2019.7.14 「愛をいただき、愛する者とされる」(要約) マタイによる福音書12:33-37

1:  間違えてしまう人間

 イエス様は【木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。】と言われたのでした。このイエス様の言葉は断罪するためではなく、「あなた方は間違っている」ということを教え、正しい道に立ち帰るために示された言葉なのです。私たちもイエス様に「あなたは間違っていないですか」と問われている者なのです。人間は間違えてしまうことがある。そしてだからこそ、人間にはイエス・キリスト、御言葉が必要なのです。

 

2:  口から溢れ出る言葉

 「言葉」は、神様からいただいている大きな恵みの一つです。神様は言葉をもって世界を造り、光を造り、私たち人間を造り、私たちの日々を守っていてくださっているのです。

 ただ、今日の箇所「つまらない言葉」は、別の訳では「不注意な」「軽率な」「無益な」言葉と訳されます。「つまらない言葉」とは、つまり「愛を生み出すことがない言葉」です。「言葉」は、人を癒し、支え、励まし、希望、愛を与えるものともなれば、間違って使えば、人を傷つけ、陥れ、惑わし、苦しめるものとなっていくのでもあります。「つまらない言葉」の心の中にあるのは、自分が正しい、自分は間違っていない、悔い改める必要はないという思いです。

 

3:  悔い改める

 イエス様は「悔い改めよ。天の国は近づいた」と福音を宣べ伝え始められたのです。ファリサイ派という人たちは、律法を守り、神様に仕えて生きていたのです。だからこそ、「自分たちは間違っていない」という思いを強く持っていたのでしょう。

 「悔い改めること」は、自分の心にイエス・キリストを迎えいれることです。私たちが陥りやすいのは心に「自分は自分の力で正しくなれる」という誘惑、悪霊を迎えてしまうことです。どんなに自分の心を整えても、自分の力のみでは心の底から聖い者となることはできないのです。私たちの心が清くされることは、ただイエス・キリストを迎えることのみよってなされるのです。

 

4:  愛をいただく

 私たちが心にイエス・キリストを迎える時、愛を受け取るのです。私たちが他者を励まし、愛し、支えていこうとすることは、とても大切です。しかし、頑張れば頑張るほど、自分の心が枯れてしまうことがあります。自分を愛して、他者を愛して、神様を愛していこうとすればするほど、心が苦しくなってしまうことがあるのです。私たちは自分で愛を造りだすのではなく、神様から注いでいただくのです。心のうちに聖い、愛の心を創造していただきましょう。

 愛は、一人で生きるところには存在しません。愛すること、それは隣に愛する人が必要なのです。神様は私たちを愛して下さっているのです。私たちはだれかと共に生きて、共に生活するときに、神様の愛を本当に心から感じることができるのです。(笠井元)

2019年

7月

06日

2019.7.7 「制限されることのない神の愛」(要約) マタイによる福音書12:22-32

1:  神の国は来ている

 今日の箇所は、ファリサイ派の人々がイエス様の癒しの活動は、神様からではなくベルゼブルという悪霊の頭からのものだとした場面です。イエス様は、ご自身の癒しの行為が、神の霊によってなされているならば「神の国はあなたたちのところに来ている」と言われます。イエス様の働きは、今、生きるここに神の国が到来するための働きでした。今日の箇所の「癒し」の出来事もまさに「神の国が来ている」ことを表す出来事でした。

 

2:  イエス様の癒し

 イエス様は「悪霊に取りつかれて、目が見えず口の利けない人」を癒されました。私たちは共に生きることが大切だと分かっていると思うのです。しかし私たちが生きている社会は、共に生きることよりも、人を傷つけてでも自分が良い道を進むことを教えてしまっています。これが私たちの生きる現実です。イエス様は、目が見えない人、口がきけない人を癒され、暗闇の世界に光を与えられました。

 

3:  二つの反応

 イエス様の癒しに対して、二つの反応がありました。一つは「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った、素直な反応です。もう一つの反応としてファリサイ派の人々は、その働きを素直に認めることができませんでした。自分たちの「立場」「プライド」というものが邪魔をしたのでしょう。神様の救いの働きは、今この世界においても起こされています。その働きを受け入れるか、それとも拒否するか、二つの反応があるのです。

 

4:  制限されることのない神の愛 

 聖霊に言い逆らうことは神様の愛を制限することです。ここでは「赦されない罪がある」と言おうとしているのではありません。神様はイエス・キリストを通して愛を示されました。この愛はすべての罪人のために注がれています。「霊に対する冒瀆、聖霊に言い逆らうこと」とは、この神様の愛を制限することです。

 今、この地上は、人が人を傷つけ、苦しむ人をもっと苦しめ、悲しむ人をもっと悲しませるような状態となっています。しかし、私たちは絶望することはないのです。神様はこのような世界を愛されている。イエス・キリストは、今も、この地において、神様の愛が満ち溢れるように働かれているのです。イエス・キリストによる神様の愛は制限されることはないのです。(笠井元)