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2018年

9月

22日

2018.9.23 「繋げられてきた福音~『復活』~」(要約) Ⅰコリントの信徒への手紙15:50-58

1:  福音の中心 復活

 神様の神秘としてなされた一番の出来事は、イエス・キリストの復活です。復活こそがキリスト教における福音の中心です。イエス・キリストの復活によって、神様は自らの愛を示し、愛に生きる新しい命を創造されたのです。キリストの復活、新しい命の始まりの出来事を、キリスト教のすべての信徒が福音として宣べ伝えてきました。そして東福岡教会の信仰の先達の方々もまた、この復活という愛の出来事を「福音」として受け取り、伝えてきたのです。わたしたちはこの主の福音を宣べ伝える「主の業に励んでいきたい」と思います。

 

2:  復活の否定

 しかしまた、福音の中心である「復活」は、キリスト教の歴史において何度も否定されてきた事柄でもあります。復活はある意味、一番人間の考えにおいて理解できない、理解を超えた出来事です。復活とは、一度この世に生きて召された者が、もう一度生き返ることだと考える、いわゆる「蘇生」のような出来事ではないのです。時間的に命が長くなること、または「死」から戻って来ることは、キリスト教においての本当の意味での「復活」ではないのです。

 キリスト教でいうところの「復活」とは、神様による新しい命の創造の出来事なのです。

 

3:  復活の意味

 「死」は「罪」であり「罪は律法」だと言います。「罪」としての「死」からの解放が「復活」です。イエス・キリストの復活は、まさに罪に勝利した出来事なのです。

 神様は人間を愛された。神様はすべての者が愛に満ち溢れて、互いに愛し合い生きる道を「復活」という形で開かれたのです。そしてだからこそ、この「復活」は多くの人間には必要とされないのです。人間が求めていることは、自分だけを愛し、自分で好き勝手に生きること。そしてそれが永遠に続くことを求めているのです。

 

4:  福音の業に励む

 神様が本当に私たちに与えてくださっているものは、神様の復活による愛。「隣人を愛する心」なのです。この教会において召されてきた方々が伝えてきた福音は、この神様の愛、復活による新しい命です。私たちは神様による復活の愛を伝える「主の業に励みなさい」、「福音を繋げていきなさい」と言われているのです。私たちは、これまでこの地において伝え続けられてきた神様の福音を今一度受け取りたいと思います。そして、これまで多くの兄弟姉妹の信仰によってつなげられてきた福音伝道の業に、これからも励み続けていきましょう。(笠井元)

2018年

9月

22日

2018.9.23 「繋げられてきた福音~『復活』~」(全文) Ⅰコリントの信徒への手紙15:50-58

1:  福音の中心 復活

 今日の箇所、51節において聖書は「わたしはあなたがたに神秘を告げます。」(51)と言います。神様の神秘。この神秘という言葉は、口語訳、新改訳では「奥義」と訳されていますが、神様の神秘、その奥義によってなされた一番の出来事は、イエス・キリストの復活です。この「復活」こそがキリスト教における福音の中心と言うことができるでしょう。神様はイエス・キリストを十字架につけられ、死に、そして三日後に復活なされたのです。このイエス・キリストの復活によって、神様は自らの愛を示し、愛に生きる新しい命を創造されたのです。

 このキリストの復活、新しい命の始まりの出来事を、キリスト教のすべての信徒が「福音」として宣べ伝えてきました。そしてこの東福岡教会の信仰の先達の方々もまた、この復活という愛の出来事を「福音」として受け取り、そして伝えてきたのです。これが神様からいただいた「主の業」です。聖書はこの「主の業に励みなさい」と教えます。今、私たちがいただき、伝えるべき福音もまた、このキリストの復活を中心とした、神様の神秘の業、愛の出来事です。この復活こそ福音の中心であり、私たちが伝えるべき事柄なのです。わたしたちはこの主の福音を宣べ伝える「主の業に励んでいきたい」と思います。

 

2:  復活の否定

 しかしまた、この福音の中心である「復活」は、キリスト教の歴史において何度も否定されてきた事柄でもあります。そしてそれは、今日のこの聖書が記された、コリントの教会においても起こっていたのです。当時のコリントの教会では復活を否定する考えが多数ありました。復活はある意味、一番人間の考えにおいて理解できない、人間の理解を超えた出来事でもあるでしょう。そして、「復活」とは、ただ人間が理解できないのではなく、実のところ人間は「必要としない」出来事だと言うことができるものだとも思うのです。 

 復活というと、この世においての理解では、一度この世に生きて、召された者が、もう一度生き返ることだと考えることが多いのです。このような理解の「復活は」できれば「必要」とするでしょう。しかし、キリスト教でいうところの復活とは、そのような、いわゆる「蘇生」のような出来事ではないのです。この世において、多くの人が求めているのは「永遠の命」です。そういう意味で、この世において死んだ者を生き返すことは、多くの人が求めている事なのです。わたしたちにとっても、この教会で召された、愛する兄弟姉妹がもう一度生き返ることがあれば、もう一度お話することができれば・・・と思うこともあるでしょう。しかし、そのようにただ時間的に命が長くなること、または「死」から戻って来ることは、キリスト教においての本当の意味での「復活」ではないのです。ただ時間的に命が長くなること、またはいわゆる「不老不死」を求めた行為、これは人間の歴史においても、この世の権力者の多くの者が求め続けている「生き続ける」ことです。それは今、自分がもっているものを手放すことができない、人間の弱さでもあるでしょう。多くの人間は、このような「永遠に生きること」または「年をとらないこと」などを求めているのです。

 しかし、キリスト教で言うところの「復活」とは、このようなものとは、まったく違うものなのです。キリスト教でいうところの「復活」とは、イエス・キリストに始まり、すでに召された者も、また今、生きている者も、同じように、主イエス・キリストが来られる時に、新しい者、朽ちることのない「愛」に満たされた者として新しく変えられる。神様による新しい命の創造、「愛」の完成の出来事なのです。

 

3:  復活の意味

 【「死は勝利にのみ込まれた。15:55 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。15:57 わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。】(15:54b~15:56)復活は「死」からの解放です。ここで言うところの「死」は、私たちがこの世において死ぬこと、召されることだけを言っているのではないのです。ここでは「死」は「罪」であり「罪は律法」だと言います。つまり、「罪」としての「死」からの解放が「復活」なのです。イエス・キリストの復活は、まさにこの罪からの解放、罪に勝利した出来事なのです。「復活」は神様の神秘、奥義の出来事です。神様は神秘の出来事として、イエス・キリストをこの世に送り、「罪」を打ち砕かれたのです。イエス・キリストは、この世において、罪人とされる者、だれからも目を向けられない者、悲しみのなかにある者、ひとり孤独に生きている者と共に生きたのです。そしてそのうえで「罪びと」として、十字架の上で死に、すべての人間の痛みを知る方となられたのです。そして、神様はこのイエス・キリストを復活されたのです。神様は、すべての人間の痛みを知り、すべての者と共に生きる方、イエス・キリストにより新しい命の創造、愛の完成をなされたのでした。神様は人間を愛された、人間を憐れみ、慈しんでくださったのです。

 

 神様は人間を愛された。そしてその人間、すべての者が愛に満ち溢れて、互いに愛し合い生きる道を「復活」という形で開かれたのです。そしてだからこそ、このキリスト教でいう「復活」は多くの人間には、受け入れられず必要とされないのです。多くの人間が求めていることは、神様に憐れまれ、愛され、共に愛し合い生きることではなく、自分だけを愛し、自分で生きていきたいように生きて、好き勝手に生きること。そしてそれが永遠に続くことを求めているのです。

 この当時のコリントの教会でも、復活は否定されたのです。そしてこの復活を否定した人々は、自分の命は自分のもので、自分勝手に生きる者となっていったのでした。 イエス・キリストによる復活。それはこのような自分勝手、自己中心の生き方からの解放の出来事です。イエス・キリストの復活によって、私たちに与えられたのは、この世において、神様が共におり、私たちを愛してくださっている。今、生きる、私たちの、この命において、神様がその存在を愛してくださっていることなのです。

 

4:  福音の業に励む

 【「15:58 わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」】(15:58)このイエス・キリストによる復活を宣べ伝えること、福音伝道の業は、この世において必要とされないのです。この世が求めるのは、権力であり、財産であり、そして何よりもただ自分だけのために長く生きること、自分だけが喜ぶこと、自分のためだけの喜びが求められるのです。これがこの世の現実です。

 しかし、神様が本当に私たちに与えてくださっているもの、それは神様の復活による愛、「他者、隣人を愛する心」なのです。

 今日は、召天者記念礼拝ですが、この教会において召されてきた方々が伝えてきた福音は、この神様の愛、復活による新しい命、新しい価値観なのです。聖書はこの「主の業に常に励みなさい」というのです。

 神様の愛。それはイエス・キリストによって示されました。それは十字架というへりくだりの行為であり、また復活という新しい命の創造、愛の出来事です。神様の愛をいただいて、生きること。そこには本当の愛に満ち溢れているのです。まず自分を愛し、そして他者を愛し、生きることを喜ぶ。その基として、神様が、私たちのために死んでくださり、そして甦り、新しい命を創られたのです。そして神様は今も私たちを愛し、共に生きてくださっている。これが神様の愛です。この神様の愛を喜んで生きる。そこに本当の喜び、新しい命の始まりがあるのです。

 この世において生きる限り、私たちは様々な壁、困難にぶつかり続けて生きていくのです。それは時に、私たち人間に絶望を与えるほどの困難となります。しかし、そのような時にこそ、私たちは神様の復活の愛を覚えたいと思うのです。神様は「死」に勝利された。それは私たちの絶望に対する、神様の勝利です。私たちは、この神様による復活の希望、愛を伝える「主の業に励みなさい」そして「この福音を繋げていきなさい」と言われているのです。それがどれほど苦しくても、それがどれほど他人の目からすれば無価値なものに見えても。 

 神様の復活という新しい命に生きること。その愛を伝えることは決して無意味ではないのです。 私たちは、これまで、この地において伝え続けられてきた神様の福音を、今一度、受け取りたいと思います。これまで多くの兄弟姉妹の信仰によってつなげられてきた福音伝道の業に、これからも励み続けていきましょう。(笠井元)

2018年

9月

14日

2018.9.16 「痛みを知る方~本当の痛みとは?~」(全文) マタイによる福音書8:1-4

1:  社会からの排除

 私たちは、これまでマタイによる福音書を読んできました。先日、「山上の説教」と呼ばれる箇所、5章から7章を読み終えました。今日の箇所は、その直後となります。

 イエス様はまず「山から下りてこられた」のです。そして、山から下りてきたイエス様が一番最初に出会ったのは「一人の重い皮膚病を患っている人」(2)でした。当時のイスラエルの社会における、皮膚病の者の立場については、旧約聖書のレビ記に記されています。その一部にこのように記されています。

 レビ記13:45-46「13:45 重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。13:46 この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。」

 当時、重い皮膚病にある者は、自ら「汚れた者です」と言わなければならなかった。しかも町の外に一人で住まなければならなかったのです。なんとひどい扱いでしょうか。この差別の根底には、この「皮膚病」というものが「罪」に対する「罰」として考えられていたこと、つまり、宗教的に「汚れた者」であると考えられていたというところにあるのです。重い皮膚病の者は、宗教的に「汚れた者」とされ、社会的に差別され、排除された存在でした。病気であるということで、すでに肉体的痛みを持っているのに、その上に、宗教的にも、社会的にも痛みを持つ者とされていたのです。

 

 皆さんも、考えてみてください。何か病気や痛みを持つと、そのことを他者に「あなたは汚れている」「近づかないで」と言われるのです。これほどの苦しみがあるでしょうか。これまで仲良く暮らしていた家族、友人からも「出て行きなさい」と言われるのです。このような痛みに耐えることができるでしょうか。私自身も先天的な病気をもっていますが、そのことで、多くの人が離れて行ったという経験をしたことがあります。病気であると知ったことで、親しくしていた友人、信頼していた先生も、多くの人々が離れていきました。

 今日の箇所での、この「重い皮膚病」を持つ者は、本当に苦しい中にいたのです。病気という肉体的な苦しみ、そして宗教的な断罪、社会との断絶、他者との関係の断絶という非常に大きな苦しみを受けていたのです。

 

2:  御心ならば

 そのような苦しみの中にあって、この者は、イエス様に近寄ってきたのです。本来、誰かに近づくことは許されていないのであり、むしろ自分から「わたしは汚れています」と言わなければならない者でした。そのような立場にありながら、この重い皮膚病の人はイエス様に近寄ってきたのです。この一歩は、決心の一歩であったでしょう。この人がもし、これまでと同じように「わたしは汚れた者です」と言っていれば、何も起こることはないのです。確かに「苦しい」。だけど何もしなければ、そのままでいられる。自分が我慢すれば、それで済むことなのだ。そのように考えることも何度となくあったでしょう。この一歩によって、これまで以上の差別、迫害を受けることになるかもしれないのです。この人は、そのうえで、大きな決心の思いを持って一歩を進み出たのです。

 そしてこの人は「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」(2)と言ったのでした。この言葉は、なんだか変な言葉です。この人は「御心ならば、癒してください」「私を清くしてください」と言うのではないのです。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」。つまり、イエス様は「清くすることができる」。それは前提としてすでにあり、そのうえで、それが「御心かどうか」、「わたしを清くすることは、イエス様、あなたの御心でしょうか」と問うているのです。ここで言う「御心ならば」という言葉は「欲しているか」という意味でもあります。この重い皮膚病の者は、これまで本当に多くの裏切り、差別を受けてきたのでしょう。ある意味、もはやこの苦しみを受けて生きていくことが「神様の意志」であり、癒されること、苦しみ生きることが神様の意向なのではないかと思っていたのかもしれません。 「御心ならば」。それは、「神様は欲するのか。神様は癒そうと思われるのか。もしかしたらこの苦しみが自分に与えられた神様の御心なのではないか。」という不安と疑いの言葉でもあるのです。重い皮膚病の者は、そのような不安と疑いの中で、それでもイエス様に近づいていったのです。心に痛みを持ち、誰も信じられない、もはや神様をも信じることができないという疑いの中で、それでもなお、一歩前に進み出たのです。

 

 この一歩に、この者の大きな決心を見ることができます。 差別の中に生きることに留まるのか。差別されていても、それで仕方がないのだと生きるのか。それとも・・・不安を振り切り、一歩、歩き出すのか。この者は自分の人生のすべてをかけて一歩前に出て行ったと言ってもいいでしょう。

 

3:  手を差し伸べられた

 イエス様は、この重い皮膚病の者に、手を差し伸べられ「よろしい。清くなれ」と言われました。もともと、隔離され、町から追いだれていたのは、その病気が「感染する」からという考えがありました。当時の医療知識では、原因も、感染力も、その経路もわからなかったので、「自分もこのようになるかもしれない」という大きな恐れがあったのです。実際は、その感染力はとても低いもので、現在では、「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律」である「感染症法」の対象でもなくなっています。ただ、当時の知識では、そのようなことは分かっていませんでした。そのような中で、そのものに触れるなどはありえないことです。近寄らないのが当然の常識だったのです。

 イエス様は、そのような当時の常識の中で、その者にイエス様は手を差し伸べ、「触れられた」のです。この行為は、その身体や病気を癒すこともですが、何よりも、この人の心の痛みに触れられたと言うことができるでしょう。イエス様は、この人が一番苦しんでいる、一番の心の痛みに手を差し伸べてくださったのです。イエス様は、ただ言葉で「あなたは癒された」と言われたのではないのです。イエス様はその心の痛み、社会との断絶、他者と関係を持つことが許されない、だれも隣に来てくれない・・・孤独という心の痛みを知り、その痛みに手を差し伸べ、触れてくださったのです。 

 ここにイエス様の救い、そして癒しがあるのです。病気や障害を持つ者にとって、もちろんその病気が癒されることは大切なことですが、一番必要なものは、病気を持っていても、障がいを持っていても、受け入れてくれる存在、一緒に生きてくれる人がいれば、それでよいのです。ただ、自分を、ひとりの人間として、その人格、存在を受け入れてくれれば、それこそが一番の救いであり、癒しとなるのです。

 イエス様は「差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われ」(3)ました。ここでの「よろしい」という言葉は、忠実に訳すると「私は欲する」という言葉となります。イエス様は、「わたしが清くされることは、あなたの欲するものでしょうか、神様の意志でしょうか」と問う者に対して、その応答として「私は、あなたが癒されること、あなたが差別されず、みんなと喜んで生きることを、その存在を欲している」と語られたのです。先ほども言いましたが、この時、重い皮膚病の者は、「不安」と「疑い」、そして「恐れ」の中で進み出たのです。イエス様はその「疑い」や「恐れ」に、「わたしはあなたというその存在を認め、愛している」と答えてくださったのです。イエス様は「わたしはあなたを愛している」、「あなたが心から喜び生きることを求めている」と答えてくださったのです。

 

 主イエス・キリストは、私たち人間の、その心の「本当の痛み」に手を差し伸べてくださるのです。そしてその痛みに目を向け、共に担い生きてくださるのです。重い皮膚病を持つ者の根本的な痛みは、人間不信、一人ぼっち、孤独でした。そのように生きている者の「だれも触れてくれない」という苦しみの中にあって、イエス様は、手を差し伸べて、触れてくださったのです。このイエス様の行為は、当時の知識で言えば、もしかしたらイエス様ご自身もまた、この病気になるかもしれない行為なのです。それでもイエス様は触れられたのです。イエス様は「神の子」として、そのような感染力はないと知っていたから触れることができたとも考えることもできます。しかし、むしろ、イエス様は、人間としてこの世にこられ、当時の知識の中で生きて、その危険性を持つ中で、「触れられた」と考えたいと思うのです。主は、その危険性も顧みず、愛をもって触れてくださった。それがイエス・キリストの共に生きることなのです。「あなたは一人ぼっちではない、孤独ではない。」「私があなたと共にいる」ということを、その行為をもって示してくださったのです。これこそ最大の癒しとなるのでしょう。

 イエス様は、私たち人間の心を知り、その本当の痛みを知り、手を差し伸べ、その痛みに触れて、共に生きてくださるのです。

 

4:  どのように生きるのか

 イエス様によって、重い皮膚病の者は癒されました。そしてイエス様は「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」(4)と言われたのです。このイエス様の言葉、「だれにも話さないように」・・・しかし「祭司に体を見せ、人々に証明しなさい」と、この言葉は、矛盾しているようにも聞こえます。「誰にも話さいように」と言っても、見ればわかることなので、あまり意味のないことに聞こえます。このイエス様の言葉は、ただ体の回復、イエス様の奇跡の出来事が一番ではない。それが「癒し」の行為が一番に言われることではないと教えているのです。

 そして、ここで言う「祭司に見せる」ということは、当時のイスラエルの社会においての回復を意味していました。レビ記14章ではこのように記されているのです。14:1 主はモーセに仰せになった。14:2 以下は重い皮膚病を患った人が清めを受けるときの指示である。彼が祭司のもとに連れて来られると、14:3 祭司は宿営の外に出て来て、調べる。患者の重い皮膚病が治っているならば、14:4 祭司は清めの儀式をするため、その人に命じて、生きている清い鳥二羽と、杉の枝、緋糸、ヒソプの枝を用意させる。・・・14:20 祭司は焼き尽くす献げ物と穀物の献げ物を祭壇で燃やしてささげる。祭司がこうして、彼のために贖いの儀式を行うと、彼は清くなる。」

 ここでは祭司に見せること、贖いの儀式をすることによって、清い者とされると記されているのです。イエス様は、自らがその者の心の痛みに触れるだけではなく、その人がこれから一人の人間として、この社会で喜んで生きるための指示をなされたのです。イエス・キリストは「私はあなたを愛している」「私はあなたと共に生きる」と語ると同時に、この世の社会において、希望を持って生きる道を指し示しているのです。

 この重い皮膚病の者は、このあとどのようにして生きて行ったでしょうか。それは記されてはいません。ただ、イエス様が言われた言葉を見て想像するならば、祭司に見せて、当時の社会における、社会復帰をし、社会の一員としていったでしょう。だ、その社会に生きるにあって、この人は、これまでに自分が受けたような差別を認める生き方はしなかったのではないでしょうか。「イエス・キリストはわたしと共にいてくださる」「神様はすべての者を愛してくださっている。すべての人間の存在を認めてくださっている」と「神様に愛される者」として生きた。それはこの社会における価値観、「差別」する生き方を選ぶのではなく、差別されている者と共に生きる道を選んでいったのではないでしょうか。

 

 私たちは今日、今、どのように生きるべきか考えたいと思います。この重い皮膚病の者は、新しい一歩を歩き出しました。不安や疑いの中でも、差別や迫害に生きることから、新しい一歩を歩き出したのです。主イエス・キリストは、私たちの心の痛みに手を差し伸べてくださっています。皆さんの心の中にある、本当の痛みは何でしょうか。皆さんは一番に、何を求めているのでしょうか。

 イエス様は、私たちの心の奥の奥にある、本当の痛みを知ってくださいます。そしてその痛みに触れてくださるのです。私たちは、このイエス・キリストによる、神の愛という喜びに満たされて、新しい人生を生きていきたいと思います。私たちの痛みを知り、孤独からの解放を与え、共に生きてくださっているイエス様の愛をいただいて歩みだしたいと思います。 イエス・キリストは私たちを愛して手を差し伸べて、その心の痛みに触れてくださっているのです。その愛の出来事を受け取り、一歩前に、歩んでいきましょう。(笠井元)

2018年

9月

14日

2018.9.16 「痛みを知る方~本当の痛みとは?~」(要約) マタイによる福音書8:1-4

1:  社会からの排除

 今日の箇所は、「山上の説教」の直後となります。山から下りてきたイエス様が一番最初に出会ったのは「一人の重い皮膚病を患っている人」(2)でした。当時、重い皮膚病にある者は自ら「汚れた者です」と言い、町の外に一人で住まなければならなかったのです。重い皮膚病の者は宗教的に「汚れた者」とされ、社会的に差別され、病気という肉体的な苦しみ、宗教的な断罪、社会と他者との関係の断絶という非常に大きな苦しみを受けていたのです。

 

2:  御心ならば

 重い皮膚病の人は「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」(2)と言いました。「御心ならば」、つまり「わたしを清くすることは、イエス様の御心でしょうか」と問うているのです。重い皮膚病の者は不安と疑いの中で、それでもイエス様に近づいていったのです。 差別の中に留まるのか、それとも不安を振り切り、一歩、歩き出すのか。この者は自分の人生のすべてをかけて一歩前に出て行ったのです

 

3:  手を差し伸べられた

 イエス様は手を差し伸べ「触れられた」のです。この行為は、何よりも、この人の心の痛みに触れられた行為です。イエス様は、この人が苦しんでいる一番の心の痛みに手を差し伸べてくださったのです。イエス様はただ言葉で「あなたは癒された」と言われたのではなく、その心の痛み、社会との断絶、他者と関係を持つことが許されない、だれも隣に来てくれない「孤独」という心の痛みに手を差し伸べ、触れてくださったのです。ここにイエス様の救い、癒しがあるのです。

 

4:  社会的回復を得た者 どのように生きるのか

 重い皮膚病の者は癒されました。イエス様は「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」(4)と言われました。「祭司に見せる」ということは、当時のイスラエルにおける社会復帰を意味していました。イエス様は、この人がこれから一人の人間として社会で喜んで生きるための指示をなされたのです。

 重い皮膚病の者は、新しい一歩を歩き出しました。差別や迫害に生きることから、新しい一歩を歩き出したのです。私たちもまたイエス・キリストの愛を受け取り、新しい一歩を歩き出しましょう。(笠井元)

2018年

9月

12日

2018.9.12 「契約の箱 神のおられるところ」  出エジプト記25:10-40

1 契約の箱・贖いの座・机・燭台 を作る指示

 神様から箱を作るように指示されます。「25:10 アカシヤ材で箱を作りなさい。」アカシヤの特徴は、とても堅く、腐りにくく、耐久性にも優れ、シロアリに対する抵抗力もあるとされ、上質な家具材として位置づけられています。箱の大きさは縦2.5アンマは112.5センチ、横1.5アンマは67.5センチ、高さ1.5アンマは67.5センチとなります。

 17節からは「贖いの座」を作るように指示がされます。「贖いの座」は契約の箱の蓋(21)とされます。「贖いの座」はアカシヤ材を金で覆ったのではなく、純金で作られ、そこから打ち出してケルビムが造られたとされています。

 また、「机」と「燭台」を作るようにも指示しています。机は、供えのパンを置くところとなっています。ダビデが祭司アヒメレクにパンを求めたときに得たのはこの机に置かれていた供えのパンです。(サムエル記上21:1-7)燭台は至聖所を照らすためのものとして作られました。この燭台は純金で作られ、重さは1キカル=34.2㎏でした。

 

2 契約の箱の効果

 この箱はヨシュアがカナンの地に入るときに担がれていきます。契約の箱を担ぎヨルダン川の中に入っていくと川は止まり、人々はヨルダン川を渡るのです。一番有名なところでは、イスラエルがエリコの城壁を、「契約の箱」と7日間周り城壁を崩したのです。(ヨシュア記6章)

 

3 失われた契約の箱

 「契約の箱」はペリシテ軍によって奪われていくのです。(サムエル記上4章)「契約の箱」は、人間の言うことをなんでも聞くものではないのです。なぜこのとき「契約の箱」は奪われてしまったのでしょうか。「契約の箱」が力不足なのではなく、当時のイスラエル、特にエリの息子たちホフニとピネハスが神様から離れてしまっていたのです。

 その後、「契約の箱」はダビデによってエルサレムに移され、(サムエル記下6章)、ソロモンによってエルサレムの神殿の中に置かれることになっていくのです。(列王記上8章)

 

4 神様の居場所

 神様はこの箱の上のケルビムの間に来られるとされます。その後「エルサレムの神殿」におられるとされていきます。その後、エルサレム神殿の崩壊によって、「神はどこにおられるのか」という問いが生まれます。そして「律法」によって神様と繋がれる関係へと進んでいきます。

 そのうえで、イエス様は「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)と言われます。また、Ⅰコリント3:16-17、エフェソ2:21-22では神様は、私たちの内に、私たちの間に来られると言います。

 神様はどこにおられるのか。私たちは問い、求め続けていきたいと思います。