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2018年

5月

23日

2018.5.23 「十戒 第五戒 父母を敬え」  出エジプト記20:12

1:  親子関係

 親子関係は、生まれた時からすでに与えられている関係です。親子関係は、自分では選ぶことのできない、神様から与えられた特別な関係です。それだけに、親子関係はとても重要です。初めての人間関係である親子関係は、その後の様々な人間関係に影響を与えます。

 

2:  なぜ父と母を敬うのか

 「父母を敬え」。理由は「そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」(12)です。

 出エジプト記13:11-16:子どもが「なぜこんなことをするのか」と尋ねたときには、「神様が私たちイスラエルをエジプトの奴隷という立場から解放されたことを記念するため」と語り継ぐように教えられているのです。

 神様は、親には「子どもに神様の救いの出来事を語り継ぎなさいと」教えられ、子どもには「親の教える神様の救いの出来事を真剣に聞きなさい」と教えられている。

 

3  間違った読み方

 「父母を敬え」。という言葉は間違えると虐待行為を助長させてしまう言葉ともなるのです。コロサイ3:20、エフェソ6:1-3は「両親に従いなさい」と言います。

 申命記6:4-9:「神を愛する」ことを「子供たちに繰り返し教えなさい」と教えています。親には、神様を愛することを子どもに語り伝える責任があるのです。

 

4  自立していく者

 子どもは神様が造られた存在です。ただ親からすれば自分たちから生まれた存在とも感じるでしょう。そのため、自分の「もの」であるという勘違いをしてしまう存在でもあります。親には子どもを育てる責任があると同時に、同等の尊厳を持つ存在として、一人の人格をもった存在として認める必要があるのです。子どもは「自分」という存在を自分自身で受け入れ、親に依存する関係から、自立し、独立していくのです。

 

5  年を取った両親に対する敬意

 「必要か」「必要でないか」という価値観で理解すれば年を取った親、障害者や弱い者、貧しい者や能力のない者は「必要ない」とされます。

 マルコ7:9-12では「年を取った親を見捨てるために、自分の財産は親ではなく、神様に捧げられていた」とも記されています。

 「年を取った両親」。その意味を広げれば「弱い者」「貧しい者」「力のない者」を大切にしなさいという言葉として読み取ることができます。神様は奴隷イスラエルを救い出した方です。弱き者、小さき者を救いだされた、これが神様の御業です。(笠井元)

2018年

5月

19日

2018.5.20 「イエスを主と告白する」(要約) Ⅰコリントの信徒への手紙12:1-11

1:  教会の誕生日

 「ペンテコステ」はギリシア語では「50」という意味です。イエス・キリストが復活してから50日目に聖霊がこの世に注がれました。「ペンテコステ」の日に聖霊がくだり、キリスト教の伝道が開始された、そして教会が誕生したのです。ペンテコステは教会の誕生日をお祝いする日です。

 教会も神様に守られ、愛されて、生み出されたのです。教会には二つの大切な働きが与えられています。一つ目は「主イエス・キリストの福音をすべての人々に伝える」「伝道」です。そしてもう一つは「お互いに祈り合う関係に生きる」「牧会」です。神様は、教会につながる一人ひとりに、聖霊を注いでくださっているのです。

 

2:  聖霊の方向性

 聖霊は人が「イエスは主である」と告白するために人間を導くのです。コリントの教会では「霊」の働きがとても重要視されていました。ただ、その働きの多くは、「異常現象」としての「霊」の働きを指していました。コリントの教会の人々が求めていたのは、ある意味偶像です。素晴らしい力、魅力的な出来事は、人間の価値観を惑わすのです。

 「イエスは主である」と告白している、その言葉、働きがどれほど小さくて力なく見えたとしても、それは「聖霊による」働きなのです。どれほど驚くような素晴らしい出来事を行っていても、それが「イエスは主である」と告白していなかったら、その働きは聖霊によるものではないのです。

 

3:  「イエスは主である」と告白する

 この手紙が書かれた時、イスラエルはローマ帝国に支配されており「カエサル、ローマの皇帝が主である」と告白しなければいけなかったのです。これがローマ帝国において生きていくなかでの基準、価値観だったのです。しかし、それに対して、聖霊は「イエスは主である」と言うと教えているのです。カエサル以外のものを「主」と告白することは、ローマに対する反逆行為です。「イエスは主である」と告白することは、ローマ帝国に対して抵抗することであり、社会的危険分子とされるのです。「イエスは主である」という告白は命をかけて行った行為なのです。

 

4:  与えられている賜物

 「賜物」も「務め」も「働き」も、すべては同じ「霊」、「神」が与えて下さっているのです。「聖霊」は「イエスは主である」と告白するために働きます。私たちがお互いの存在を喜ぶことができるために働いているということです。イエス・キリストは、一人の弱い者、一人の貧しい者の存在を喜ばれました。神様は私たち一人ひとりに聖霊を送って下さいました。それは、私たちが個人として、自分の存在を喜ぶとともに、共に生きる喜びを感じるための導き、恵みです。(笠井元)

2018年

5月

19日

2018.5.20 「イエスを主と告白する」(本文) Ⅰコリントの信徒への手紙12:1-11

 今日はペンテコステです。聖霊のくだった、このペンテコステの時を共に祝いましょう。

 

1:  教会の誕生日

 ペンテコステという言葉は、わたしたちにはあまりなじみのない言葉かもしれませんが、「ペンテコステ」とは、ギリシア語では「50」という意味をもちます。ギリシア語では「ペンテ」が数字の「5」の意味をもち、現代では、アメリカの国防省の五角形の建物が「ペンタゴン」という名前となっています。この言葉も同様にギリシア語に由来しているのです。

 このペンテコステの日は、イエス・キリストが復活してから50日目に「聖霊がこの世に注がれた」、その時を覚えてお祝いするときです。イエス様の復活の後弟子たちは集まり、祈っていました。そしてその復活から50日目に聖霊がくだったのです。それがペンテコステ「聖霊降臨祭」です。この「ペンテコステ」の日に聖霊がくだり、キリスト教の伝道が開始されたのです。このペンテコステの時に教会が誕生したのです。 今日は、ペンテコステ、教会の誕生日をお祝いする日です。

 

 私たちすべての人間に誕生日があります。誕生日は、とても特別な日です。子どもからすると、誕生日ケーキやプレゼントをもらえる時で、毎年指折り待ち続けている日かもしれません。誕生日は、命が誕生し、一人の人間の存在が始まった日です。神様からいただいた大切な命が始まったときなのです。

 幼稚園の誕生会では「うまれるまえから」という歌を歌います。この歌はこのような歌詞です。 「うまれるまえから かみさまに まもられてきた ともだちの たんじょうびです おめでとう うまれてきょうまで みんなから あいされてきた ともだちの たんじょうびです おめでとう」わたしはこの教会に来て、幼稚園でも働くことになったのですが、その中でも特に感動した出来事としての一つに、この歌との出会いがあります。 私たち一人ひとりの命は、「生まれる前から神様に守られてきた命」であり、そして「生まれて今日までみんなから愛されてきた命」なのです。誰もが、自分から「さてそろそろ生まれよう」として生まれた人はいないのです。命の誕生には、まず、そこに神様の意志があります。人間は動物の中でも、一番未熟な状態で生まれてくる者だと言われますが、生まれてすぐに「話しだし」「ご飯を食べ」「トイレに行き」「歩き出した」人はいないのです。人間は、多くの人々によって守られ、愛されて、育てられなくては生きていけない者なのです。この弱さは、他者の助けを必要とすることを覚えるために、大切な姿でもあると思います。私たちの命は神様によって創られ、守られ、そして多くの人々に愛され、支えられてきた命なのです。なんとなく、何事もなく暮らしていると、自分のこの命が神様から与えられた命であるという、その恵みを忘れてしまうことがあります。幼稚園の誕生会でこの歌を歌う時に、その恵みを何度も思い出します。

 今日は、教会の誕生日です。もちろん教会も神様に守られ、愛されて、生み出されたのです。教会には二つの大切な働きを与えられています。一つ目は「主イエス・キリストの福音をすべての人々に伝える」「伝道」です。そしてもう一つは「お互いに祈り合う関係に生きる」「牧会」です。この「伝道」と「牧会」。そのために教会は生まれ、そして働くのです。そして、そのために神様は、教会に、そしてその教会につながる一人ひとりに、聖霊を注いでくださったのです。

 

2:  聖霊の方向性

 今日の箇所では、この霊の働きを明確に教えています。3節ではこのように言います。12:3 ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。

 聖霊は人が「イエスは主である」と告白するために、人間を導くのです。それが聖霊の働きです。この聖書の言葉が記されたとき、コリントの教会では「霊」の働きがとても重要視されていました。ただ、その働きの多くは、「異常現象」としての「霊」の働きを指していましたのです。

 「聖霊」の働きが、何を意味しているのか、「聖霊」の働きが何のために起こされているのか、ということは関係なく、その「異常現象」自体がすばらしく、力ある業と考え、感じていたのです。 確かに、このペンテコステの始まりの時にも、イエス様の弟子たちは様々な言葉を話すという行為を行ったのでした。ある意味、人間の常識を超えた出来事が起こったのでした。いわゆる「異常現象」が起こされたのです。だこの弟子たちの上に起こった現象には、大切な意味があったのです。弟子たちは、様々な言葉で語りだしました。それは聞く人の故郷の言葉であり、内容は「主の福音」、「神様の偉大な業」を語ったのです。つまり、ペンテコステの時、聖霊が注がれた時に、弟子たちに起こされた出来事を簡単に言うと「すべての者が一番理解できる言葉で、わかりやすく、主の福音を宣べ伝えた」という出来事が起こったのでした。 これが聖霊によって起こされた出来事です。

 

 この時、コリントの教会では、霊の働きとして起こされる異常現象の出来事に囚われてしまっていたのです。その異常現象の意味の方向性はばらばらで、教会は混乱してしまったのです。コリントの教会の人々が求めていたのは、ある意味、偶像なのです。素晴らしい力、魅力的な出来事は、人間の価値観を惑わすのです。そのようなコリントの教会に送ったこの手紙では、何が聖霊の働きの基準となるのかを教えているのです。そしてそれは「イエスは主である」と告白しているか、それとも「イエスは神から見捨てられよ」と言っているかどうかということ、これが聖霊の働きを見分ける基準だと教えているのです。この基準は単純ですが、これがすべてなのです。

 「イエスは主である」と告白している、その言葉、その働きが、どれほど小さくて、力なく見えたとしても、それは「聖霊による」働きなのです。そしてどれほど驚くような素晴らしい出来事を行っていても、それが「イエスは主である」と告白していなかったら、その働きは聖霊によるものではないのです。これが聖霊の働きによる方向性です。聖霊は「イエスは主である」と告白させるのです。

 

3:  「イエスは主である」と告白する

 この「イエスは主である」という告白は、他の何でもなく、聖霊の働きによってのみ、告白することができるのです。 の手紙を書いたもう一つの理由として、当時の社会構造も理由の一つであったのです。この手紙が書かれた当時、イスラエルはローマ帝国に支配されており、「カエサル、ローマの皇帝が主である」と告白しなければいけなかったのです。ローマの皇帝「カエサル」がこの世の絶対的な支配者であり、すべての人間の主人である、これがローマ帝国において生きていくなかでの基準、価値観だったのです。しかし、それに対して、聖霊は「イエスは主である」と言うと教えているのです。

 「イエスは主である」と告白することは、ローマ帝国に対して抵抗することであり、社会的危険分子とされるのです。そのような意味でこの「イエスは主である」という告白は、命をかけて行った行為なのです。だからこそ、聖霊、神様の導きと力がなくては、この告白はできないのです。

 

4:  与えられている賜物

 今日の箇所では、この聖霊の具体的な働きとして与えられている、「賜物」「務め」「働き」について教えます。4節からはこのように教えます。「12:4 賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。12:5 務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。12:6 働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。」(Ⅰコリント12:4-6)「賜物」も「務め」も「働き」も、すべては同じ「霊」、同じ「主」、同じ「神」が与えて下さっている。そして、それぞれの者に与えられている「賜物」は、なにかがすばらしくて、なにかが劣っているという、何かを特別視するものではないのです。聖書は、そのうえで、「“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださる」(11)と教えます。

 何かが特別に素晴らしいということはできません。しかし、それぞれに与えられた賜物は、各自に与えられた大切な恵みです。私たちは、まず自分自身に神様の霊による恵みが与えられていること、自分には素敵な賜物が神様から与えられていることを覚えたいと思うのです。神様は、私たち一人ひとりを創造し、その存在を喜んでくださっています。そこにはその存在の素敵な意味があり、そこに素敵な賜物が必ず与えられているのです。だれかと比べてみると、社会的に必要とされていて、「素晴らしい」と人々に言われることであったとしても、また、今の社会にはあまり必要とされないために、誰にも素敵だと思われないとしても、それぞれに与えられているのは、確かに同じ神様から与えられた「恵み」であり、素敵な「賜物」なのです。そして、それは同じ「聖霊」によって与えられているものなのです。

 わたしたちは、今一度、このペンテコステの時に、神様の前に立ち、心を静かにして、自分の存在を考えてみたいと思うのです。今、私たちはまず、自分の存在を、心を静めて考えてみたいと思うのです。自分が一人で神様に向かい合い、祈りの時をもって、神様に生かされている一人の人間としての喜びを、まず受け取りたいと思うのです。神様は、私たち一人ひとりを、その個人をそれぞれの存在として、喜んでくださっているのです。

 

 そして、そのうえで、わたしたちは、お互いの存在に目を向けていきたいと思うのです。私たちは、自分の存在の素晴らしさを確認しましょう。そして、そのうえで、お互いの存在をどのように感じているか。お互いの存在を喜ぶことができるか、・・・隣人に目を向けていきたいと思うのです。「聖霊」は「イエスは主である」と告白するために、働かれています。そして、それは私たちがお互いの存在を喜ぶことができるために働かれているということでもあるのです。

 イエス・キリストは、一人の弱い者、一人の貧しい者の存在を喜ばれました。聖霊は、私たちを、このイエス・キリストを「主」と告白して生きること、お互いの存在を喜ぶ道を導いているのです。神様は私たち一人ひとりに聖霊を送って下さいました。それは、私たちが個人として、自分の存在を喜ぶとともに、共に生きる喜びを感じるための恵みであるのです。

 このペンテコステの時、私たちは今、自分の存在の素晴らしさ、そしてお互いに共に生きる、その恵みを喜んでいきたいと思います。そして心から「イエスが主」であると告白し、賛美し、生きる者とされていきたいと思います。(笠井元)

2018年

5月

12日

2018.5.13 「神は必ず助けて下さる」(本文) 詩編46:2-12

1:  神様の愛

 今日の聖書の御言葉の、「46:2 神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。」という言葉は、先ほどひかり組の子どもたちが元気に言ってくれましたが、5月のひかり組の暗唱聖句となっています。東福岡幼稚園は「キリスト教保育」として、神様の愛を伝えています。子ども達に、一番に学んで欲しいことは、「あなたはいつも愛されている存在である」ということ、そしてだからこそ「隣人を愛して、お友だちを大切にして生きる」ということを、学んで欲しいと願っています。

 「46:2 神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。」という御言葉は、どのような時にあっても私たちと共にいてくださる、神様の愛を表している言葉なのです。

 

2:  必ず助けてくださる

 ここでは「苦難の時、必ず助けてくれる」と言っています。この詩が詠われた時、イスラエルの人々はアッシリアという国に包囲され、国が滅ぼされる寸前の時であったのです。つまり、この詩編の詩を詠っている人は、この時、絶体絶命の時、明日生きているかどうか、それすらもわからない時でした。この詩はそのような時にあって「それでも神様は、苦難の時、必ず助けてくれる」と詠われた詩なのです。この詩の作者は、神様は「どのような時にあっても、必ず、わたしたちを助けてくださる」ということを信じて詠いました。心の中ではおびえや不安でいっぱいであったでしょう。それでも、「神様は私たちを愛し、私たちの存在を喜び、私たちのために共に生きてくださる」と信じて詠いました。

 私たちは、この神様の愛を忘れてしまっているときがあるのではないでしょうか。

 今、私たちが生きている世界を見てみるときに、現代社会はとても不安定であり、未来は不透明な時代になっていると感じるのです。ニュースを見ると、いつも、子どもが傷つけられたり、テロや銃による悲しい事件、自然災害によって苦しんでいる人の姿が報道されています。何か、この世界は、神様の愛に満たされているのではなく、悪に満ち溢れてしまっていると感じてしまうのかもしれません。そしてそれが当然の現実があるのです。

 わたしは、スポーツ、その中でもサッカーが好きなのですが、今年は、サッカーでは4年に1度の世界チャンピオンを決める、ワールドカップがある年となっています。今年はこのワールドカップはロシアで行うことになっていますが、ロシアとイギリスとの国の関係の悪化から、イングランド代表が出場をボイコットする可能性があるとされています。せっかく4年間も待って、予選を勝ち抜いてきたのに・・・出場しないかも知れないというのです。サッカーファンとしては、国の争い、その政治のために、そのようなことになるのは、とても残念です。

 

 また、現在、日本の年間の自死者は3万人ほどとされ、日本の幸福率はとても低いものとなっています。現在は出生率が低下傾向にありますが、その理由の一つに「経済的理由」が上げられ、「自分が子どもを幸せに育てることができると思わない」という理由が挙げられています。このような現実の中で、希望を持つこと、愛に満たされているということを覚えて生きることはとても難しいのかもしれません。

 しかし、それでも聖書は「神は必ず助けてくださる」と教えているのです。人間の理解では、目の前は暗く見えて、希望が持てない中にあっても、神様はそこにいて、必ず助け手くださるのです。

 

3:  共におられる

 今日の聖書の御言葉は、「46:2 神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。」と教えます。ここでは「苦難の時、神様は必ず助けてくださる」と教えているのです。神様は、苦難の時、私たちが未来に希望を見ることができないような時に、私たちを「必ず」助けてくださるのです。今日の聖書8節と12節において言われていますが、「主はわたしたちと共にいる」のです。神様は何があっても、私たちと共にいてくださるのです。困難の中、暗闇の中、私たちが一番苦しくなるのは、本当は経済的な問題などではないのです。一番苦しいのは、「自分は一人である」という「孤独感」に陥ること、自分が一人であると感じていくこと、他者との関係が崩れてしまうことです。

 わたしたちは自分の隣に、だれがいてくれていると感じ取っているでしょうか。一緒に笑う人、一緒に泣く人、一緒に考える人、一緒に生きる人。そのような関係の存在がある時、それがどれほどの苦しみの中にあっても、私たちは希望を持つことができるのです。

 

 東日本大震災をはじめとして、熊本地震、朝倉での豪雨と、日本では自然災害が続いています。ただ、このような災害という困難など、大きな困難に出会う時、人々はお互いを助けようとします。津波や地震、大雨などの自然災害の中にあって、人々は力を合わせて共に生きていこうとするのです。このようなことは簡単に言うことではないのですが、このような関係を見る時に、私は痛みのなかにあって、絶望だけではなく、希望も見ることができるのです。共に生きる人がいる、共に生きて行こうとしている時、ここに、希望を持つことができるのではないでしょうか。

 しかし、同時に、とても悲しいこととして・・・そのような大きな困難から少し離れてしまうと、今度は、人間は、自分のためだけに生きることを始めるのです。他者を陥れて、他者を蹴落としてでも、自分が勝ち組になることを考え始めてしまう。自分のために誰かを傷つけてでも、幸せになろうとしていく姿があるのです。困難を目の前にしたときに、人間はお互いに力を合わせることによって、苦しみを乗り越えようとしながらも、その困難を乗り越えたら、今度は自分のためだけに生きていこうとするのです。そしてこれが人間の限界だとも思うのです。

 

 そのような私たちに、神様は「私はあなたを必ず助ける」と、どのような場面にあっても、あなたを愛している、「必ず」あなたと共にいると言ってくださっているのです。そして、神様は、確かにその命を捨ててまでも、私たちを愛してくださる。この神様の愛を、主イエス・キリストが表されたのです。神様はイエス・キリストをこの世に送り、共に生きてくださり、「わたしは必ずあなたと共にいる」と約束してくださっているのです。この神様の約束。宣言を受け取る時、私たちはどのような状況にあっても、「私は一人ではない」という希望と勇気をいただくことができるのです。

 

 このあと「主われを愛す」という讃美歌を詠います。以前、幼稚園の子どもたちに讃美歌のお話をしました。そのとき、わたしの好きな讃美歌としてこの讃美歌を子どもたちに紹介しようとしたのですが・・・子どもたちがみんなで突然この讃美歌を歌いだしたのです。昨年、10月にこどもたちに、教えた讃美歌なのですが、子どもたちはこの讃美歌を覚えていました。「主われを愛す、主は強ければ、われ弱くとも、恐れはあらじ、わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、われを愛す」

 わたしは、苦しい時、いつもこの讃美歌を思い出します。わたし自身いつも神様の事を忘れてしまい、自分勝手に生きてしまいます。自分で何でもできると思い、自分のためだけに生きてしまうのです。そして困ったときだけ「神様助けてください」と、「困ったときの神頼み」のような信仰しかもっていません。

 それでも、そのような「弱い者」をも神様は、愛してくださっている。人間が神様を愛するのではないのです。神様が、私たちを愛してくださっているのです。神様は、私たちがどのような状況にあっても、私たちを愛し、離れず、いつも共にいてくださる方です。そしてそれがイエス・キリストによって示された神様の愛なのです。

 子どもたちが本当に苦しく、困ったときに、この神様の愛を思い出してほしいと願っています。そしてまた、皆さんにも、神様が私たちを愛してくださっているということを覚えていてほしいと思います。私たちは自分の力だけでは希望にあふれる人生を歩いて行くことができない者かもしれません。しかし神様はそのような弱く小さな者を愛し、勇気と希望を与えてくださるのです。

 

4:  力を捨てよ 神を知れ

 最後に、10節からの言葉を見ていきたいと思います。聖書はこのように言います。「46:10 地の果てまで、戦いを断ち、弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。46:11 「力を捨てよ、知れ、わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」46:12 万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。」 

 最初にお話ししましたが、このとき、人々はアッシリアという国に滅ぼされる寸前にいたのです。そのような者に神様は「弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。『力を捨てよ、知れ、わたしは神。』」と語りかけられるのです。希望をもつために本当に必要なこと、それは弓や槍ではないのです。人間の力ではないのです。それは人を自分のために人を傷つけてしまうものでしかないのです。神様は、お互いを傷つけあうことではなく、お互いに愛し合うことを望んでおられるのです。私たちは、神様がいつも一緒にいてくださることを、知り、受け入れたいと思います。ここに決して変わることのない、「互いに愛し合う」という、本当の希望を見ることができるのです。聖書は、「力を捨てよ」と言います。それは「自分の力」の限界を知ること、そしてそのうえで、本当に私たちを愛してくださっている、神様を信頼するように語っているのです。神様はどのような時も、「『必ず』私たちと共にいてくださいます」。この神様に信頼していきましょう。 (笠井元)

2018年

5月

12日

2018.5.13 「神は必ず助けて下さる」(要約) 詩編46:2-12

1:  神様の愛

 東福岡幼稚園では「キリスト教保育」として神様の愛を伝えています。子どもたちに学んで欲しいことは、「あなたはいつも愛されている存在である」「隣人を愛して、お友だちを大切にして生きる」ということを、学んで欲しいと思っています。

 「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。」(2)という御言葉は、どのような時にあっても私たちと共にいてくださる神様の愛を表しているのです。

 

2:  必ず助けてくださる

 この詩が詠われた時、イスラエルの人々はアッシリアという国に包囲され、国が滅ぼされる寸前の時でした。この詩は「それでも神様は必ず助けてくれる」と詠われた詩なのです。神様は私たちを愛し、共に生きてくださるのです。

 私たちはこの神様の愛を忘れてしまっていないでしょうか。今、私たちが生きている世界を見ると、世界は神様の愛ではなく、悪に満ち溢れてしまっていると感じてしまうのかもしれません。しかし人間の理解では、目の前は暗く見えて希望が持てない中にあっても、神様は必ず助けてくださるのです。

 

3:  共におられる

 8節と12節において「主はわたしたちと共にいる」と言います。神様は何があっても、私たちと共にいてくださるのです。私たちが一番苦しいのは、「自分は一人である」という「孤独感」に陥ることです。一緒に笑う人、泣く人、生きる人、そのような存在がある時、どれほどの苦しみの中にあっても、私たちは希望を持つことができるのです。

 神様は「必ずあなたと共にいる」と言い、確かにその命を捨ててまでも私たちを愛してくださるのです。

 

4:  力を捨てよ 神を知れ

 神様は「弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。『力を捨てよ、知れ、わたしは神。』」(10-11)と語りかけられるのです。希望をもつために必要なことは弓や槍ではないのです。神様がいつも一緒にいてくださっていることを知ることによってのみ、決して変わることのない希望を見るのです。

 聖書は「力を捨てよ」と言います。力を捨てることは自分の力の限界を知ること、そのうえで本当に私たちを愛してくださっている神様を知り信頼することです。(笠井元)