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2月10日(日)

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2019年

1月

21日

2019.1.20 「イエス様はあなたを招かれている」(要約)  マタイによる福音書9:9-13

1:  徴税人マタイを招いた

 イエス様はマタイという徴税人を招かれます。この時代の税金とはローマ帝国に納めるものでした。そしてその税金を徴収するのが徴税人です。ユダヤ人の中で徴税人とはローマに魂を売った人たち、裏切り者という立場にあったのです。イエス様が招かれた人は、このようなユダヤの裏切り者、徴税人マタイでした。

 イエス様はなぜマタイを招かれたのでしょうか。ここでは、何か大きな理由は記されていません。そこにマタイがいたから。イエス様が目を留められたからです。イエス様は、マタイという徴税人、ユダヤの社会において蔑まれ、軽蔑された存在を選ばれ招かれたのです。

 

2:  生き方の違い

 イエス様は徴税人マタイを招かれました。そして徴税人や罪人をと食事をなされたのです。ファリサイ派の人々は、このことを受け入れられませんでした。私たち人間はそれぞれにお互いに少しずつ妥協して社会を形成しています。ただ妥協ができないほどに価値観の違う人たちとは、違う共同体を作り始めるのです。ファリサイ派の人々にとっては、律法を守らないことは許しがたいことでした。それは少し妥協して受け入れることができるということではなかったのです。

 

3:  神の恩恵によってすべての人が招かれている

 このような中にあって、イエス様は徴税人マタイを招かれたのです。それは神様がすべての人間を愛しておられ、すべての人間を招かれていることを表しているのです。私たちの救い主イエス・キリストは「罪人を招かれるためにこられた」のです。マタイによる福音書5章では、【父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。】と教えます。神様はすべての人間を愛された。どれほど人間が神様を裏切っても、神様は人間を愛し続けてくださっているのです。

 

4:  イエスに従ったマタイ

 今、私たちが選ぶことは、イエス・キリストによる神様の愛を受け入れるか、それとも受け入れないかということです。マタイは立ち上がり、イエス様に従い歩き出したのです。マタイは、イエス様に従う決心をしたのです。すべての者がイエス・キリストに招かれています。私たちは、このイエス・キリストの招きに応えていきましょう。(笠井元)

2019年

1月

21日

2019.1.20 「イエス様はあなたを招かれている」(全文)  マタイによる福音書9:9-13

1:  徴税人マタイを招いた

 今日の箇所においてイエス様はマタイという徴税人を招かれます。イエス様にとってマタイは、ただ「通りがかりに見かけた人物」でした。イエス様はそのマタイを「わたしに従いなさい」と招かれたのです。 

 ここで招かれたマタイについて少しお話しますと・・・まずここで、収税所に座っていたというところから、マタイはいわゆる徴税人、税金の取り立てをする人だったと考えられます。少し税務署の人に悪いのですが、現在でも、税務署の人が来るのはあまり喜ばれないかもしれません。

 少し前になりますが、この教会、また附属幼稚園に税務署からの監査が入りました。その時は、多くの資料を集めて、みせる必要があるので、実際、大変なことで、決して嬉しいことではありませんでした。また税務署の監査の目的は、もちろん不正をしていないかということもそうですが、私としては、とにかく少しでも、どこかに税金を徴収するところがないか・・・と探して、税金を徴収するということが目的ではないかと思ってしまうのです。 本来、税金とは、私たちの暮らしを豊かにするためのものです。一人ではできないことを、みんながお金を出しあって、必要なこと、学校を作ったり、道路を作ったり、困っている人を助けるためにと、様々なことに使うためのものです。私は、税金を集めるために国から遣わされているわけではありませんが、そのような意味では、本来、税金を支払うことは、喜んで行うことだと思うのです。ただ、現代の人々はあまり税金を快く支払うことができません。その一つには税金を使っている内容に納得ができていない。どこかで奴隷が支配者に支払っているように感じてしまっている。そのような思いがあるのではないでしょうか。

 この聖書における税金は、まさにそのような意味のものでした。当時、ユダヤの民はローマ帝国に支配されており、そのローマという国のために納めるものだったのです。自分たちを力で押さえつける者たちが、ただ自分勝手に裕福な生活をする。そのために、お金を納める。つまり、奴隷がいっぱい働いて、その収穫だけはもっていかれる。そんなことと同じ状態だと思うのです。そのようなローマに納める税金を徴収するのが徴税人だったのです。ユダヤ人の中で徴税人とはローマに魂を売った人たち、裏切り者、ローマの手先という立場にあったのです。しかも、徴税人たち自身も、ローマの権力が後ろにあるという、その立場を利用して、お金をだまして巻き上げてもいたのでした。聖書の別の箇所で登場する徴税人の頭であった、ザアカイの言葉には、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」(ルカ19:8)とありますが・・・そのように、徴税人は貧しい人からもお金をだまし取り、自分たちだけが裕福になっていたのでした。

 イエス様が招かれた人は、このようなユダヤの裏切り者、徴税人のマタイだったのです。ここにイエス様がなぜマタイを招かれたかということは記されていません。ここでは、ただ通りがかりに座っていたのを見かけて、マタイを招かれたのです。イエス様はなぜマタイを招かれたのでしょうか。少し想像をしてみて、様々な理由を考えて、マタイの良いところから考えてみますと・・・

 たぶんマタイはお金を取り扱うことが上手であったでしょう。また、これは良いこととは言えませんが、人をだましたり、脅すことも上手であったかもしれません。また、現在はあまり考えられていませんが、このマタイがマタイによる福音書を記したと以前は考えられていましたので、福音書を書くほどに書記能力があったとも考えられます。ただ、そのような理由でイエス様がマタイを招かれたとは考えにくいと思います。ではどのような理由だと考えられるのでしょうか。ここでは、何か大きな理由があったからではなく、そこにマタイがいたから。イエス様が目を留められたからです。そしてそれはマタイが、特に何かできる才能がある者だったからでも、そのようなものがなかったからでもないのです。イエス様が選ばれるのは、何かが出来るから選ばれるのではないのです。イエス様は、マタイに目を留められた。それが徴税人という立場の者、財産はもっていたでしょうが、ユダヤの社会において蔑まれ、軽蔑された存在であった、マタイであった。イエス様はそのような徴税人マタイを招かれたのです。

 

2:  生き方の違い

 イエス様は徴税人マタイを招かれました。そして徴税人や罪人をと食事をなされたのです。ファリサイ派の人々は、このことを受け入れられませんでした。ファリサイ派の人々とは、厳格に律法を守っていた人たちでした。神様から与えられた律法を忠実に守り、だからこそ、律法を守らない人たちを罪人として、関わることもないようにしていたのです。ファリサイ派の人々からすれば、徴税人は、極悪人、詐欺師で、もはや殺人者と同じような人々でした。「ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。」(11)のです。このような極悪人を受け入れられないことは人間として自然な反応だと思うのです。私たち人間が、人間として、ただそのままの状態で生きていれば、極悪人と共に生きて、罪びとと一緒に食事をすることを、「心からそのようにしたい」と思ことはあまりないと思うのです。私たちが生きるこの社会は、一定の基準をもった集団の集まりでできていると言ってよいでしょう。

 たとえばですが、現代では、タバコを吸う人がだいぶ暮らしにくい社会となってきています。それはタバコが体に悪いから、しかも中毒性が強く、他者にまで害を与えるからとされるからです。以前は飛行機でも、新幹線でも、室内のどこでも喫煙するのが普通の時代もありましたが、現代では喫煙所を探すことにも苦労するほどです。

 決して、タバコを吸う人が極悪人ということではありませんが、今、タバコを吸う人と吸わない人とは、住むところが分けられてきていると言うことができるのです。また、驚きですが、インターネットなどをみてみると、この世には、戦争することを好んでいる人がたくさんいるのです。戦争をしたほうがよい、戦争して他国を滅ぼし、自分たちがよりよい生活をしようと考えている人たちが、この世に大勢いるのです。またそれほどまでに過激ではなくても、攻撃を受けないためにも武器を持つことには賛成だということ、いわゆる「抑止力」として、「武器を持つこと、基地を作ることは必要だ」という意見の方は、たくさんおられます。そのような中で、「戦争反対!!」「武器反対!!」と声をあげることのほうが、とても勇気のいる社会となってしまっているのかもしれません。それだけではありません。もっと簡単なことでいえば、時間を守る、守らないという違い、ご飯の食べ方、食べる物、文化の違い、言語の違い、様々な生き方、価値観、ルールの違いによって、同じ共同体では生きることができない、受け入れられない。そのようになっていくことはよくあることだと思うのです。

 私たち人間は、それぞれに違いを持ちながらも、お互いに少しずつ妥協して、社会を形成しています。ただ、それでもどうしても妥協ができないほどに、価値観の違う人たちとは、違う共同体を作り、別々に生活を始めるのです。それが私たち人間が作っている共同体です。ライオンがウサギと、蛇が蛙と一緒には生きることができないように、一緒に生きることができない。そのような基準を持つことが、私たち人間のほとんどの集団にはあるのです。

 今日の聖書では、ファリサイ派の人々にとっては、律法を守らないことは許しがたいことでした。それは、決して少し妥協すれば、受け入れられることではなかったのです。そのような徴税人と一緒に生きること、食事をすること、そして愛することができませんでした。そして同様に徴税人からしてみれば、自分たちを受け入れないファリサイ派の人々などと一緒に生きようとなど考えてもいなかったとも思うのです。このような受け入れがたい存在があるという価値観は、ファリサイ派の人々が特別なのではなく、私たちもそれぞれに持っていること、愛することができない人、受け入れられない価値観が、私たちにもあることなのです。

 

3:  すべての人が招かれている

 このような中にあって、イエス様は徴税人マタイを招かれたのです。それは神様がすべての人間を愛しておられ、すべての人間を招かれていることを表しているのです。つまり、イエス様に受け入れられない者はいなかった。イエス・キリストは、徴税人も含め、罪人も、またファリサイ派の人々も、イエス様は受け入れ、愛されたのです。イエス様はこのように言われました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(12-13)私たちの救い主イエス・キリストは、「罪人を招かれるためにこられた」のです。それは、丈夫な人、健康な人、罪のない人は招いていないということではありません。神様の前にあっては、すべての人間が「罪人」であり、そして「病人」なのです。そこには徴税人のマタイも、そしてファリサイ派の人々も、ローマの人々も、そして私たちすべての者が含まれているのです。

 イエス様は、マタイによる福音書5章43節から、このように言っています。【「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」】神様は「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる」のです。今日の箇所において、イエス様は『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』(12)と言われました。この言葉はホセア書から引用した言葉で、本来の言葉では、「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない。」(ホセア6:6)となるのです。ホセアは徹底的に神様の愛を語った預言者とされています。神様はすべての人間を愛された。どれほど人間が離れても、どれほど裏切っても、神様は、愛し続けてくださっているのです。ホセアは、神様の愛、その憐みを知り、信じることを求めたのでした。どのようになったとしても、神様が私たちを見捨てることはない。神様は私たちを愛し続けてくださっている。その憐みを語ったのです。

 

 そして、その愛の中心に、イエス・キリストが来られたのでした。神様は、この世にイエス・キリストを送って下さいました。そこに朽ちることのない愛が示されたのです。イエス・キリストは、すべての人間を受け入れ、愛し、そして、命をかけて人間と共に生きて、喜び、苦しみ、痛み、最後には十字架の上で死なれていったのです。そこには罪人も徴税人も、ファリサイ派も関係ありません。もちろん私たちも、私たちとは考えの違う人々も、たとえ、大きな犯罪を犯したものであっても、また自分は正しいと考えている人だとしても、イエス・キリストは、そのすべての人間のために、そしてその人間の持つ、弱さのためにこの世界に来てくださったのです。神様は、悪人にも、善人にも、太陽を昇らせ、雨を降らせるように、すべての人間のために、イエス・キリストを送り、そこに愛を示されたのです。

 

4:  イエスに従ったマタイ

 ここで今、私たちが選ぶことは、このイエス・キリストによる神様の愛を受け入れるか、それとも受け入れないかということです。マタイはイエス様の招きに応え、立ち上がり、イエス様に従い歩き出したのです。ここには、イエス様がなぜマタイに目を向けたか、その理由も記されていないように、なぜマタイがイエス様に従ったのか、その理由も記されていません。理由を考えてみれば、マタイが徴税人という、ユダヤの社会において孤独な存在とされる仕事に疑問をもっていた。そこにイエス様の温かさを感じたなど、それなりの理由は考えられますが、ここでは、理由は記されておらず、ただ・・・マタイはイエス様の招きに応えたという姿があるのです。

 マタイは、イエス様に従う決心をしたのです。私たちもまた、すべての者がイエス・キリストに招かれています。私たちは今、どのように応答するのでしょうか。神様は私たちを愛しておられる。それは、私たちがどのような者であってもです。この神様の愛によって、神様との関係に生きる、その扉は開かれたのです。私たちは、その扉を越えて一歩踏み出すのか、今いるここに留まるのか、それが問われているのです。私は、このマタイが決心をしてイエス様に従ったように、私たちもまた、イエス・キリストに従う道を歩き出したいと思うのです。神様の愛を信じて、その愛を心に受け入れ、生きていきたいと思います。

 イエス様に従う道。それは、イエス・キリストが自らの人生を通して示されたように、いわゆる自分の価値観、自分の生きる生き方とは違う人々、本当は受け入れられないような違いを持つものを受け入れる道です。時にそれは今の社会の価値観において「罪人」「極悪人」とされる人と共に生きる道となるかもしれません。私たちにそのようなことができるでしょうか。イエス・キリストに従うため、その道を歩き出すためには、まず、自分のもつ正義、自分の価値観や倫理観、自分の考えを土台とした正しさが、絶対正しいと思っているところから離れなければならないでしょう。私たちは、間違いを犯します。私たちは、完全ではないのです。それなのに、私たちは自分の価値観が正しいとして、他者の考えを間違っているとしてしまうことがあるのです。

 私たちは、まず、神様の憐みによって生かされているという土台に立つ必要があるのです。イエス・キリストを土台とする必要があるのです。私たちは今も、そしてこれからも、ただ主の愛のみによって生かされているのです。この信仰に立ち続け、ただイエス・キリストに従い歩んでいきたいと思います。イエス様は今、私たち一人一人にむけて、「わたしに従いなさい」と招かれています。私たち一人一人に目を向け、出会い「従いなさい」と召されているのです。私たちは、このイエス・キリストの招きに応えていきましょう。(笠井元)

2019年

1月

14日

2019.1.13 「貧しさと富に処する道」(全文)  フィリピの信徒への手紙4:10-14

 私の住むアパートのベランダには梅の木の鉢植えがあります。この時期は少し蕾が膨らみかけていて、毎日眺めています。昨年は夏の水やりが良くなかったのか、老成させることに失敗して、ほとんど葉っぱでした。花は数個しかつかず、枝だけすくすく伸びました。一年がかりで、さて、今年はどうだろうと期待しています。

 パウロはフィリピの信徒たちの手紙の最後の部分で、「あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました」(10節)と書いていますが、ギリシヤ語では、パウロを思う思いが枯れたかなと考えていたけれど再び、花開くように、「芽生えてきた」と言うイメージです。新しい年、私たちは、花を咲かせるべく、どのような芽生えの時を迎えているでしょう。

 

1.心遣いを喜ぶ

 この個所はフィリピの信徒たちのパウロへの「贈り物への感謝」というタイトルがつけられています。フィリピ教会は獄中にあるパウロのためにエパフロディトという信徒を派遣し、献金を託してパウロを支援しました。(4:18)一旦ちょっと枯れたかなと思ったということですから、パウロとフィリピの教会との間に何か問題があったのかも知れません。手紙の最後に献金への感謝が述べられているわけですが、「感謝」という言葉はありません。むしろ、物質的援助そのものより、彼らのパウロに対する「心遣い」を主イエスにあって喜んでいると言います。もし人間同士のモノのやり取りが前面に出ると、「感謝が足りない」とか、「気が付かない」とか不平不満の余地があるでしょう。パウロはそれゆえ、モノのやり取りの背後のフィリピの人たちの「心遣い」を喜ぶと言います。パウロを支援しているのは、単なるモノのやり取りを超えて、パウロを通して働く「イエス・キリストの福音」に与ること、その労苦、苦しみに共に与ることであると言います。「心遣い」とそれを表現するモノとの関係は少し複雑です。ある信徒、しかも、本当に献身的な信徒の言葉ですが、「あの牧師のことを考えると、献金する気持ちが萎えてくる」と聞いたことがありました。私が牧師の時代には、十分の一献金をしていた人でしたし、ベテランの信徒でしたので、その言葉を聞いて驚きました。「あなたは、神様への感謝の応答として献金をしているのではなくて、牧師や教会のために献金しているのですか」と対応しておきました。むろん、その夫婦が献金を減らしたことはないと思いますが、気持ちは分かるような気がしました。モノを捧げることとその背後の気持ちとはどこか繋がっていて、そのつながりは大切ではありますが、では、捧げる気持ちが薄れてきたので、辞めますということであれば、それは献金の行為ではなくなってしまうことでしょう。こうして、捧げる側は、背後の気持ちと実際の捧げるモノの間の葛藤を生きているのでしょう。たぶん、支援を受け取る側も「感謝」の思いと「誰からも自由である」という思いのせめぎ合いの中で生きているのでしょう。いずれにせよ、私たちは、神に対して捧げものをする、それを通して福音が前進する、その喜びと苦労を共に味わうのであるという基本を外してはならないのです。

 

2.置かれた境遇に満足する

 そうは言うものの、パウロは多少、弁解がましいことを語ります。自分は、「物欲しそうにこういうのではありません」。「物欲しそうに」とはちょっといやらしい翻訳ですが、口語訳あるいは新改訳の「乏しいから、こう言うのではない」の方が原語に近いです。英語でもwantは「欲しい」という意味ですが、もともとは「欠乏している」という意味ですね。窮乏状態を見て、何とかしようという気持ちは大切ではありますが、それが基本的動機ではなく、神の働き、福音の前進に与るということがキリスト者の基本姿勢であったら素晴らしいです。

 パウロは、自分は「置かれた境遇に満足することを習い覚えた」といっています。日本社会でも「足るを知る」という言葉があります。限りない欲望をしっかりとコントロールをして生きることです。環境の変化に左右されず、変化に対処するためには「自足」することが大切です。パウロの当時は、ストア哲学というのがありまして、ギリシヤ・ローマ社会ではその禁欲生活が大切にされました。「足るを知る」ことは人間の「徳」として評価されていました。ただ、パウロは、それを自分の努力で身につけたというのではなく、「わたしを強めて下さるお方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」(13節)というように、主イエス様の助けによって、足るを学んでいると言います。これがキリスト教信仰の考え方です。

 

3.貧しさと豊かさに処する道

 パウロは、さらに、12節では、当時の神秘主義、神秘宗教の悟りを指す言葉を使います。同じような内容が3セット繰り返され、「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも」と言い、「満腹していても、空腹であっても」と重ねられ、「物が有り余っていても不足していても」いついかなる場合にも対処する「秘訣」を授かっていると語ります。まあ、パウロが「豊かであった」とか、「満腹している」とか「物が有り余っている」などを示す記録を目にしたことはありませんので、言葉の勢いのようなものでしょうか! パウロはもっぱら、「貧しく」しばしば「空腹」であり、「物が不足していた」ことでしょう。彼は天幕作りの働きをしながら、福音伝道に携わっていたわけです。IIコリント11:23以下には彼の苦労のリストが記されていますが、その中で。「苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました」(27節)と言っています。

 そうですから、パウロが「豊かであった」とか、「満腹している」とか「物が有り余っている」などということはないのですが、クリスチャンになる前には、今で言えば有名大学出の博士のような人で、ローマの市民権を持っていた家庭で育っていましたので、「豊かであった」とか、「満腹している」とか「物が有り余っている」とかを経験していたのかも知れません。

 私も牧師という仕事を選んだこともあり、多少は貧しさを経験はしていると思います。まあ、私より妻の方が苦労したと思います。ある時、東京駅から新幹線に乗り、名古屋に帰るときでしたか、お腹が空いたのでワゴン車で物を売りに来た女性に「サンドイッチはいくらですか」と聞くとサンドイッチを差し出しながら、「480円です」と言われ、いや「ただ値段を聞いただけです」と答えたときには、寂しい気持ちでした。300円しか持っていませんでしたので。スイス留学と言えば、聞こえが良いですが、牧師給の8割、ボーナスなし、本人の飛行機チケット片道分の支給でした。家族の分と帰りのキップは自分で稼げということで、春休み、夏休みはチョコレート工場でアルバイト、また、学期中は朝5時前に起きて学内の雪かきなどをしていました。人が歩くと雪が固まってしまうからです。チューリッヒの街を家族で歩いていると、ヴェトナムのボートピープルと間違われたのでしょうか、子どもに5千円札などを握らせてもらったこともありました。当時の日本は高度成長期でしたが、われわれの身なりは随分貧しく見えたのでしょう。そのような中でも貧しさが人間の心を支配するといけないので、1点豪華主義で、妻から1ケ就き千円のお小遣いを貰うと100グラム5000円、あるいは、3000円の宇治の玉露を買ってちびちび、こんな上等な煎茶を飲んでいる人はおるまいと得意になったりして、貧しさの中でも豊かに生きることを心掛けてきました。面白いのは牧師をしておりますと結婚式の披露宴に招かれる機会が多いのです。ある時は、宗教者として一番の上席に座らせていただきます。隣は一流企業の重役たちであっても気後れしないように、話を合わせます。ある時は、「先生、家族のようなもんだから、ここで良いよね」と末席に座ることもあります。「あはは、そうだね」と悪びれずに喜んで感謝します。人間として、貧にも豊かなにも対応できるように考えてやってきました。

4.神の国と神の義をまず求める

 まあ、私の貧しい経験はどうでも良いことかもしれませんが、「わたしを強くしてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」とまでは言わないものの、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」ということがはっきりしていれば「これらのもの(この世の必要)はみな加えて与えられる」という単純で、自由な気持ちで生きることができることは確かです。そして、単純で、自由な生き方は牧師だけではなく、クリスチャン一人一人の重要な課題です。先週は堤未果の『日本が売られる』というショッキングな本を読みました。今の社会は生き残りをかけて国までが経済効率最優先で、米国と大企業の言いなりです。水道の民営化ということで、水まで芸国やフランスの外国資本に売り渡そうとしているわけです。自由化で、原発事故で汚染された土壌まで外国資本に売り渡そうとしているらしいですね。農地や森や海などの売り渡されようとしていると書かれていました。年金がいつまでもらえるのかも不安ですね。まさに、ありとあらゆる環境に対応できる姿勢と愚かなことにならないように目を覚ましている賢さが必要となるでしょう。「わたしを強くしてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」と言えるように生きたいものです。

 

5.福音のために共に苦しむ

 皆さんは、牧師の立場とは違いますし、実際、私よりも貧しい方もおありでしょう。しかし、神の国と神の義を求めることによって、第一のものを第一のものとすることによって、思い煩いから解放されて生きることは大切なことです。また、全く、人間的な配慮や評価から自由な境地で献金することを通して、福音のために共に苦しみと喜びに与るという姿勢も素晴らしいことです。

 最初に、木の芽が開花に向けて芽吹くというイメージに触れました。今年はどのような年になるのでしょうか。私たちの心の中にじっと温め、祈り願うことはどのようなことでしょうか? ただ神のみ名が崇められるように、み国がきますようにと祈りましょう。(松見俊)

2019年

1月

14日

2019.1.13 「貧しさと富に処する道」(要約)  フィリピの信徒への手紙4:10-14

 パウロは書簡の最後の部分で、「あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました」(10節)と書いています。パウロを思う思いが枯れたかなと思ったけれど再び、花開くように、「芽生えてきた」と言うイメージです。新しい年、私たちは、開花を目指してどのような芽生えの時を迎えているでしょうか?

 

1.心遣いを喜ぶ

 パウロは、物質的支援よりも、フィリピの人々のパウロに対する「心遣い」を喜んでいます。人間同士のモノのやり取りが前面に出ると、「感謝が足りない」とか、「気が付かない」とか不平不満の余地があるでしょう。パウロはそれゆえ、モノのやり取りの背後のフィリピの人たちの「心遣い」を喜びます。

 

2.置かれた境遇に満足する

 パウロは自分が欠乏しているから、フィリピの支援を喜んでいるのではないと多少弁解します。自分は「置かれた境遇に満足することを習い覚えた」といっています。日本社会でも「足るを知る」という言葉があり、ギリシヤ・ローマ社会でも、「足るを知る」ことは人間の「徳」として評価されていました。ただ、パウロは、それを自分の努力で身につけたというのではなく、「わたしを強めて下さるお方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」(13節)というように、主イエス様の助けによって、足ることを学んでいます。

 

3.貧しさと豊かさに処する道

 12節では、当時の神秘主義、神秘宗教の悟りを指す言葉を使います。「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも」いついかなる場合にも対処する「秘訣」を授かっていると語ります。

 

4.神の国と神の義をまず求める

 あらゆる境遇に処するには、「何よりもまず、神の国と神の義を求める」ことです。それがはっきりしていれば「これらのもの(この世の必要)はみな加えて与えられる」という単純で、自由な気持ちで生きることができることは確かです。

 

5.福音のために共に苦しむ

 また、全く、人間的な配慮や評価から自由な境地で献金することを通して、福音のために共に苦しみと喜びに与るという姿勢も素晴らしいことです。(松見俊)

2019年

1月

09日

2019.1.9 「主の栄光を求める」  出エジプト記33:18-23

1 執り成しの祈り

 モーセは「どうか、あなたの栄光をお示しください」(18)と神様に願い出たのです。「栄光」とは「さまよう者を導く」ために神様が示さる事柄とされます。これまで神の栄光は「雲の中に」(16:11)「燃える火のように」(24:17)表されてきました。ここではもはや直接「神様ご自身を示してください」と願うのです。さまよい迷うイスラエルに「共におられること」のしるしを求めた、執り成しの祈りです。

 

2 善い賜物「愛」を通らせる 

 神様は二つのことを言われます。一つは「すべてのわたしの善い賜物を通らせる」(19)ことを、もう一つは「あなたはわたしの顔を見ることはできない。」(20)ことです。顔を見ることはできない、しかし、その代わりに「すべての善い賜物を通らせる」というのです。神様の顔を見ることはできなくても、神様の賜物、本質を感じ、受け取ることができることを示しているのです。 Ⅰヨハネ4章から、神様の本質は「愛」とされます。

 

3 神の主権性 

 「わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。」(19)ここには神様の主権性が示されています。神様は人間が「何かをしたから」ではなく自らが「憐れもう」「慈しもう」という意志をもって人間を愛されるのです。神様は自らの意志をもって、私たちを選びだし愛されているのです。(ヨハネ15:16)

 神様の主権性を考える時に、人間の自由意志についても考える必要があると思います。神様は自らすべての人間を愛されている。それに対して、人間もまた自分の意志をもって神様の愛を受け入れるのです。

 

4 岩の上に立つ (21)

 「岩のそば」は「岩の上」と訳すことができます。マタイでは「砂の上に家を建てること」と「岩の上に家を建てること」が語られます。「岩の上」は、御言葉を聞いて行う者と教えます。神様は、神様の本質「愛」を受けとること、そしてその恵みをいっぱい受けて生きることを教えられているのです。

 

5 わたしの後ろを見る (22-23)

 「神様の通り過ぎた後ろ」。そこには何が見えるのか。私たちの人生において今は理解できない、しかし振り返り見てみると、そこには確かに神様が共にいてくださったことを見ることがあると思います。神様の通り過ぎた道をみるとき、そこに愛の御業を見出すことができるのでしょう。(笠井元)