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2018年

11月

12日

2018.11.11 「魂の休息」(要約)  マタイによる福音書11:28-30

1:  新鮮な命の力

 神様は、わたしたちに「休ませてあげよう」と招きます。「休ませてあげよう」という言葉は、別の訳で「新しい、新鮮な命の力を与える」と訳しています。内容としては「新しい命の力を与える」という言葉のほうが、わかりやすいでしょう。以前、園児から「祝福ってなんだろう」と質問されたことがありました。新しい命の力を与えてくださる。それが「神様の祝福」と言うことができでしょう。

 

2:  休むことができない

 現代の私たちは「休むことができない」社会に生きているのではないでしょうか。ニュースでは「過労死」または「過労による心の病」に陥っていくことが問題として挙げられます。「休むことができない」。そのような私たちに神様は「休ませてあげよう」と招かれます。

 

3:  重荷とは

 「休むこと」ができないという現実は、今日の言葉に「重荷を負う者」とありますように「重荷を負っている」ことを意味します。私が大きな問題として考える「重荷」の1つは「孤独」、もう1つは「生きる意味の喪失」です。「孤独感であふれ」「生きる意味を見失った」とき、心は奥底から枯渇してしまうのです。イエス・キリストは、そのような魂の枯渇、心の底からの叫びに応えて「あなたに新たな生きる力を与えよう」と呼びかけてくださるのです。

 

4:  キリストのくびきを負う

 イエス様は「わたしのくびきは負いやすい」と言われています。この言葉を理解する大前提として、わたしたち人間は、だれもが何かしらの「くびき」を負っているという前提があるのです。「くびき」とは言い方を変えると、私たちの生きる価値観ということです。そして「キリストというくびき」を負うことは、その生き方の中心に、「イエス・キリスト」をおくことを意味するのです。

 「くびき」とは、牛や馬などの首にはめる木のことで、大抵、家畜二頭にくびきを付けて、荷車などをひかせるのです。「キリストのくびき」とは、神様ご自身が、私たちと共に歩き、共にその重荷を負って下さるということです。

 

5:  神様の愛をいただく

 神様はすべての者に「愛」を注いでいるのです。私たちの隣には、イエス・キリストがいてくださるのです。私たちはキリストによる愛を受け、愛を実現するために生きているのです。ここに本当の喜びに生きる意味、生きる価値観、人生の意味を得るのです。私たちは神様の愛をたくさんいただいて生きているのです。私たちはこの神様の愛を表して生きていきましょう。(笠井元)

2018年

11月

12日

2018.11.11 「魂の休息」(全文)  マタイによる福音書11:28-30

 今日は、幼児祝福礼拝です。先ほど子どもたちと祝福の祈りを行いました。幼児祝福式は、神様が私たち一人ひとりを愛してくださっているという祝福の恵みを思い起こさせます。今日、わたしたちはこの恵みを共に受け取りましょう。

 

1:  新鮮な命の力

 先ほど、読んでいただきましたが、聖書で、神様は、わたしたちに「休ませてあげよう」と招きます。「休ませてあげよう」。この言葉を、別の訳では「新しい、新鮮な命の力を与える」と、訳しています。内容としては、この「新しい命の力を与える」という言葉のほうが、わかりやすいと思います。今日は、幼児祝福礼拝です。この幼児祝福礼拝は、毎年行っていますが、わたしは、お祈りするときに、「前の年はこんなに小さかった子どもが、今年は、こんなに大きくなって・・・」ということを、本当に実感します。

 以前、この祝福式のリハーサルをしているときに、子どもから、神様の「祝福ってなあに?」と聞かれたことがありました。その後、「祝福」ってなんだろうと考えましたが、今日の聖書のことばは、その一つの答えではないかと思うのです。「あなたを休ませてあげよう」。そして「あなたに新鮮な生きる力を与えよう」と語りかけてくださっているのです。それは、砂漠の中を歩き続け、喉が渇き、おなかがすき、疲れ果てた時に、出会うオアシスのようなものです。まさに生き返る、命の水が体の隅々に行きわたる。もう一度、歩き出す力が湧いてくる。そのような心の中に染み渡る休息。新しい命の力を与えてくださる。それが「神様の祝福」と言うことができるのです。

 

2:  休むことができない

 現代の私たちは「休むことができない」社会に生きているのではないでしょうか。ニュースでは「過労死」または「過労による心の病」に陥っていくことが問題として挙げられます。この「過労死」は海外では相当する言葉がないそうで、ローマ字で「K」「A」「R」「O」「S」「H」「I」として、「KAROSHI」と表すようです。海外では日本人は「生きるために働いているのか?」「働くために生きているのか?」と疑問視されています。わたしたちは走り続けなければ倒れてしまう、自転車のような「忙しい」人生を送っているのです。そして、それが私たちの生きている現実となってしまっているのです。「休むことができない」。そのような私たちに神様は「休ませてあげよう」と招かれます。聖書では、神様がこの世を創造するときに、その7日目に「休まれた」ことが記されています。神様は、この世界を造るにあたり「休み」を必要とされた。「休むこと」の大切さを教えてくださっているのです。

 

3:  重荷とは

 ただ「休むことができない」という現実はそれほど簡単に変わるわけではありません。「休むこと」ができないという現実。それは今日の言葉に「重荷を負う者」とありますように「重荷を負っている」ことを意味します。では、私たちにとっての重荷とはどのようなものでしょうか。私たちを逃げ出すことのできない、「忙しさ」に追い込むものは一体どのようなものでしょうか。

 現在、日本において1年間での自死者は2万人程度とされています。交通事故で亡くなられる方が年間3700人ほどですので、本当に多くの方が「人生に絶望して」亡くなれているのです。わたしたち人間を絶望に追い込むものは一体どのようなことでしょうか。わたしたちが背負う「重荷」には、さまざまものがありますが、その中でも、私がとても大きな問題として感じていることは2つあります。

 1つは「孤独」ということ、そしてもう1つは「生きる意味の喪失(そうしつ)」です。これは2つで1つのセットなようなものだと思いますが、私たちの人生における大きな「重荷」となることにこの「孤独」と「生きる意味の喪失」ということがあります。

 

 わたしが牧師になるために、西南の神学生として勉強していた時のことですが、わたしは研修神学生として、福岡教会という教会に通っていました。あるとき、突然、警察から連絡がありました。教会にきていた一人の高校生が窃盗で補導されたということでした。なぜわたしに連絡がきたのか、よくよく話を聞いてみると、親が二人ともドイツに行ってしまっていて、保護者がいないということです。兄弟がいるわけでもなく、親戚のだれかがいるのでもなく、ただひとりで暮しているということでした。まだ16、7の高校生です。いつもはとても元気で、笑顔でした。住んでいるところも、きちんとしたところで、お金は毎月振り込まれているようで、困っていることもなかったそうです。ただ、その人は、ひとりでした。その「窃盗」という行為の裏には、「心の孤独」、「さびしさ」があったのではないでしょうか。そしてその「孤独な心」が「生きる意味」を失わせていました。自分は何のために生きているのか。何をすれば、理解してくれる人がいてくれるようになるのか。一緒に考えて、笑って、一緒に生きる人が欲しい。そのような心の痛み、つまり魂が枯渇していたのです。

 

 このように魂が枯渇しているときに、時間的、肉体的に「休む」ことだけでは、なかなか、心の底からは満たされないのです。少しゆっくりする。旅行に出かけたり、レジャーを楽しんで、気分転換をする。そのようなことももちろん「心と体の安息」のためにはとても大切なことです。

 ただ、心の底から枯渇してしまったとき、「孤独感であふれ」「生きる意味を見失った」とき、本当に重荷に押しつぶされ、声もでないほどの苦しみにあるときには、そのような一時的休息だけでは「本当の休み」とはならない、つまり、生きる気力を取り戻すことはなかなかできないのです。そして、イエス・キリストは、そのような魂の枯渇、心の底からの叫びに応えて、「あなたを休ませてあげよう。」(28)「あなたに新鮮な生きる力を与えよう」と呼びかけてくださるのです。

 

4:  キリストのくびきを負う

 聖書はこのように言いました。

 【11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。11:30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。】

 イエス様は「わたしのくびきは負いやすい」と言われています。これは、とても不思議な言葉となります。本来動物が休むときは「くびき」をはずすのです。「くびき」を負うことは「休む」ことから「束縛」されることになるのです。そのうえで、神様は、「イエス・キリストというくびきを負いなさい」と言われているのです。

 この言葉を理解する大前提として、わたしたち人間は、だれもが何かに支配されている。何かしらの「くびき」を負っているという前提があるのです。どれほど自分は自由だと思っていても、私たちは何に支配されているのです。

 「支配されている」というと抵抗があるかもしれませんが、言い方を変えると、私たちにはそれぞれ生きる価値観があるということです。生きているときの判断基準がある。どこでどのようにするのか。生きる方向性を持ち、生きる価値観を持っているということなのです。そして「キリストというくびき」を負うことは、その生き方の中心に、「イエス・キリスト」をおくことを意味するのです。つまり、その生き方、生きる価値観の中心にイエス・キリスト、神様の愛という価値観を持つこと、それが「キリストというくびき」を負うことなのです。

 さきほども言いましたが、「くびき」とは、牛や馬などの首にはめる木のことで、大抵二頭にくびきを付けて、家畜に荷車などをひかせるのです。二頭で一つのくびきをはめるのです。「イエス・キリストというくびき」。それは「わたしたちのくびき」をイエス・キリストが担ってくださることを意味するのです。「キリストのくびき」。それは、神様ご自身が、私たちと共に歩き、共にその重荷を負う方がおられる。イエス・キリストは私たちといつも共にいて、同じ道を歩き、私たちを愛してくださっていることを表しているのです。

 

5:  神様の愛をいただく

 神様は「愛する」お方です。神様はすべての者に「愛」を注いでいるのです。私たちが本当に、「魂に安息を得る」こと。それは「孤独」からの解放。神様に愛されているという恵みを受け取ることにあります。私たちの隣には、イエス・キリストがいてくださるのです。そして、私たちは、このキリストによる、愛を受け、愛を実現するために生きている。この愛の価値観を中心に置くこと。ここに本当の喜びに生きる意味、生きる価値観、人生の意味を得るのです。 私たちは神様の愛をたくさんいただいて生きているのです。私たちはこの神様の愛を表して生きていきましょう。(笠井元)

2018年

11月

03日

2018.11.4 「嵐の中で共におられる方」(全文)  マタイによる福音書8:23-27

1:  従った弟子たち

 今日の箇所において、まずイエス様は船に乗りこまれました。この後の28節を見ますと、イエス様は、向こう岸のガラダ地方に向かわれたのです。このガラダ地方とは、いわゆる異邦人、異教徒の住む場所でした。当時のユダヤの民は「自分たちは神様に選ばれ救われる者であり、異邦人は汚れている、関わってはいけない」とい考えていました。そのような中で、イエス様は、ガラダ地方、つまりユダヤの民からすれば「汚れた者」が住む場所に向かおうと、船に乗りこまれたのでした。そしてこのイエス様に弟子たちは従ったのです。

 この「従う」という言葉は「後ろからついていく」という意味となり、またここには記されていませんが、基本的に、この「従う」という言葉には「一切を捨てて」「そのほかのものを持たずに従う」という意味を持っていました。「従う」ということは、弟子たちがイエスを主として、強い思いをもって「そのほかの何も持たずに、従った」ということを意味する言葉でもあるのです。弟子たちはイエス様の後ろをついて歩き出したのです。弟子たちは、イエス様の向かう道、ここでは「汚れた者」とされる地にむかう、このイエス様に、一切を捨て、何も持たずに従ったのでした。

 ここには、弟子たちの強い信仰の決心が見ることができます。この後、イエス様と弟子たちを乗せた船は「嵐」に出会っていくのですが、その船に乗り込むときに、弟子たちは、一切を捨て、汚れた地とされる、異邦人の地に向かうという決心、信頼をもって歩き出したのでした。

 

2:  マタイの教会の状況において

 このイエス様と弟子たちを乗せた船は、一つの解釈として、このマタイが記された当時の「教会」を表していると言われています。当時のマタイの教会のキリスト者は、外からはローマ帝国とユダヤ教による迫害があり、また内からは、意見の違い、キリスト理解の違いからの内部分裂などがあり、まさに嵐の中にあって、壊れそうな船という状態にあったのでした。そして、当時の教会の人々もまた、そのような苦難の中でも、大きな決断をもってキリストを信じ、従った者たちでした。今日の箇所において、弟子たちが大きな決断をもってイエス・キリストに従ったように、当時の教会の人々もまた人生をかけて、キリストへの信頼をもって、イエス・キリストを信じたのです。しかし、そこにあった迫害、分裂などによって、その信仰は、まさに嵐に襲われたような状態にあったのです。当時の人々からすれば、「イエス様は眠ってしまっているのではないか」「このままではイエス様もとろも沈んでしまうのではないか」と思うほどの困難に出会っていたのです。

 

 「この世の嵐の中に生きること」は、その当時の教会だけでのことではありません。それはどのような時代にあっても、それは今、私たちが生きるこの時代にあっても、「教会」は、この世においては、嵐に襲われている存在としてあるのです。イエス様に従うことは、この世に逆らうこととなります。 聖書にはこのような言葉があります。【19:21 イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」19:22 青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。】(マタイ19:21-22)

 イエス様は「行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。」(21)と言われました。青年は、イエス様に従いたいという思いはあったのかもしれません。しかし「自分の財産を貧しい人々に施す」ということができなかったのです。自分の身を削ってまでイエス様に従うことはできなかったのです。これは、この青年が特別、自己中心で、他者を思いやることができないということではないでしょう。人間は、まず「自分」のことを考えてしまうものなのです。そして、自分の、その身削ってまで、人のために生きることは、なかなかできることではないということです。「自己中心に生きること」このことがとても悪いことだと言われると、私も含め、皆さんも、またすべての人間が、耳が痛いのではないでしょうか。ただ、これがこの世の考え方であり、私たちの内にある心の思いなのです。ある意味、素直な人間の思いでしょう。純粋に人間が、何も考えることなく生きる時、そこには「争い」が起こります。それは人間は基本的に「自己中心な者」だからでしょう。

 しかし、このような思いを持っていることによって、自分の存在を否定することはないのでしょう。わたしたち人間には、考える力があります。理性があり、知恵があるのです。そのような力、学ぶ力も含めて、私たちは一人の人間なのです。

 ここには附属の幼稚園、東福岡幼稚園がありますが、幼稚園は子どもたちにとっては、初めての集団生活、初めての社会生活の始まりの場所でもあるのです。つまり、誰かと共に生きることが始まるということです。それは、ただ自分勝手に、好き勝手に生きているところから、隣人を大切にすることを学ぶのです。東福岡幼稚園では、教会附属の幼稚園として、「共に生きる」ことの根幹に神様に愛されていることがあり、神様の愛に応えて愛し合い生きることを教えています。「神様に愛されていること」「互いに愛し合うこと」は、楽しいことで、喜びが広がること、一緒に何かをすることが、とても素晴らしいことだということを感じてほしいと願っています。

 イエス様は「行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(21)と言われました。イエス様は、自分だけのために生きることから、神様のために、他者のために生きる大切さを教えているのです。

 

 教会はこのイエス・キリストに従う信仰共同体です。人間としての弱さや欠けのある者でありながらも、それでもイエス・キリストが自分を愛してくださっているという恵みに応答して生きる者の集まりです。つまり、この世の考え方、自分の素直な思いに、逆らい生きる者の集まりです。そのため、この世において、教会につながる者として生きているときに、嵐に出会うのは当然のことなのです。むしろ、神様に従うとしながら、この世において、何の嵐にも出会わない時には、私たちはこの教会が本当に神様に従って生きているのか、もう一度点検する必要があるでしょう。

 

3:  嵐に出会う人生

 この聖書の言葉は、当時のマタイの教会の状況から、その教会を表して記されたと言いましたが、同時に、もちろん、わたしたち個人個人に向けても語られているのです。私たちは、それぞれの人生において、嵐のような困難に出会うのです。それは大きな嵐のときもあれば、小さな嵐のときもあります。ただ、どのような者であっても、多かれ少なかれ、その人生において「嵐」にのみ込まれそうになる。そのような経験を持っていると思うのです。

 実際に今の日本においては多くの「嵐」がやってきています。ここでの「嵐」という言葉は、別の箇所では「地震」とも訳されており、まさに「嵐」「地震」が起きているのです。今年は西日本豪雨、台風21号による関西が受けた大きな被害、そして北海道では大きな地震が起こりました。

 また、世界に目を向ければ、日本では見えないかもしれませんが、今でも、各地で戦争が起こり、普通に、お家でご飯をたべて、洋服を着て、寝て、起きること、そのような生活することができない人々がおり、難民となる人がいて、またその難民を受け入れない国がある。そしてこれからは、超高齢化社会、温暖化問題、人口増加による食糧不足など、問題は山積みなのです。

 また、もう少し身近な個人的な問題で考えれば、他者との関係において、家族、友人、会社の人、学校の人、また教会でも、その関係がうまくいかないという問題が起きることもあるでしょう。また、先日、電話の相談がありましたが、特に何も問題はない生活を送っているのですが、「自分が生きている意味がわからない」というような相談がありました。それなりの生活をしていても、何のために生きて、何をすればよいのか、見失ってしまった、少し贅沢な悩みだとも思いますが・・・「自分がなぜ生きているのか」を見失うということは、命の大切さを見失っている、しかも解決する道はまったく見えないという意味で、とても大きな問題であるのです。そのほかにも、病気や突然の死、考えられないような困難が、私たちの人生には「嵐」となって襲ってくるのです。

 このような時、私たちは何をすることができるでしょうか。地震や台風であれば、ある程度は備えることができるでしょう。しかし、私たちの人生において、もはや、私たちにはどうすることも出来ない出来事、もはや前にも後ろにも行くことはできない、まさに「嵐」の中でおぼれそうだという状態に陥ることがあるのです。このとき私たちは何をどうすればよいのでしょうか。

 

4:  「主よ、助けて下さい」

 今日の箇所において、弟子たちは嵐の中で、イエス様に「近寄って起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言った。」(25)のです。弟子たちは「嵐」に出会う中で、寝ているイエス様を起こしたのです。最初にお話ししましたが、もともとこの弟子たちは、イエス様に自ら「従った」者たちです。自分から、なにもかも捨てて、イエス様に信頼し、歩みだした人たちだったはずなのです。ただ、そのように、イエス様に信頼し、すべてを捨てて歩き出したという者、そのように自負している者は「自分は、強い信仰でイエス様についていくのだ」「どのような嵐の中も、ついていける」という間違え、謙遜ではなく、傲慢へと陥りやすいものなのです。このときの弟子たちも、そのような間違いに陥っていたのではないでしょうか。隣にイエス様がいることを忘れて、イエス様を必要としていなかった。まさに、イエス様を寝かした状態にいたのではないでしょうか。そのような中、嵐の中、慌てふためき、どうしようもできなくなった時、そのような中でようやく、弟子たちは隣にイエス様がおられたことを思い出したのです。そしてイエス様を起こすのです。そして「主よ、助けてください」と叫んだのです。このときに、弟子たちは、イエス・キリストを必要としました。自分の信仰に自信をもって、傲慢になり、自分で生きていけると思っていた。自分は完全、完璧だと思ってしまっていた者が、もう一度、自分の弱さ、欠点に気付き、イエス・キリストを必要としたのでした。

 

 私たちは嵐の中で、何を求めるのでしょうか。地震の時は、まず避難場所、食料、水を求めるのでしょうか。停電になれば、ローソクなどが必要になるかもしれません。住んでいた家が壊れてしまった場合は、仮設住宅を必要とするでしょう。他者との関係が破たんしてしまったときには、どうすればよいのでしょうか。その関係を回復するために、きちんと話し合うのが一番よいと思いますが、関係を回復することはとても難しいことでもあります。また、信じられないような事故や病気や、死に出会ったときはどうしていけばよいでしょうか。

 聖書は、何よりもまず「イエス・キリスト」を求めなさい、「主よ、助けてください」と祈りなさいと教えているのです。「嵐」の中で、前にも後ろにも行くことができなくなったときに、抜け出すための様々な方法を考えることも大切ですが、それよりもまず、「神」「主イエス」を求めなさい、「主よ、助けてください」と叫ぶことを教えているのです。

 

 この、嵐の中で救いを求める者の叫びを聞く時に、イエス様は、起き上がり、嵐を凪に静められたのです。「嵐」という、人間ではどうすることも出来ない困難が襲い掛かる中で、イエス・キリストは、その嵐を静められたのです。これが、主に助けを求めた者に与えられる恵みです。主イエス・キリストは、困難、苦しみの中にある者の叫びを聞いてくださいます。そしてその嵐を静めてくださるのです。

 

5:  共に生きる方

 この時、人々は、8:27 人々は驚いて、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言った。】のです。私たちは、この問い、「この方はどういう方」なのだろうか、という問いに、どのように答えることができるでしょうか。

 ここでは、イエス様は人間の想像を超えた力で、嵐を静めてくださいました。しかし、イエス様は、どのような困難も、超自然的な力をもって、まるでテレビに出てくる、すべてを打ち砕く、いわゆるスーパーマンのような、ヒーロー的な救い主ではないのです。ドラマなどでは、特殊な能力を持った人間が、問題を解決していくというお話がたくさんあります。悪い人が次々に倒されていくようなお話は、確かに見ているととてもスカッとします。

 ただ、イエス・キリストがなされた人間の思いを超えた救いとは、そのようなものではないのです。イエス・キリストの救いとは、キリストが自らの命をかけてまで、人間である私たちを愛されたという行為によるのです。主イエス・キリストは私たちを愛し、私たちと共に生きて、そして、死んでくださった。そのことが表されたのが、十字架であり、復活という出来事なのです。イエス・キリストはそのような意味で「完全なる方」すべてを捨ててまで、隣人である私たちを愛された方なのです。イエス様は私たちと共に生きてくださるのです。私たちが本当に苦しい時、そこにイエス・キリストは共にいてくださるのです。どのような嵐の中にあっても、主は共にいてくださるのです。私たちにとって、最も苦しいことは、その苦しみ、痛みが理解されないということではないでしょうか。イエス・キリストは、私たちの心の奥底まで、すべてを知り、共に生きてくださる方です。主は、私たちと共に苦しみ、共に泣き、共に笑い、共に生きる方として、この世に来てくださったのです。 

 私たちが「嵐」に出会う中での、最大の救いの恵みは「主が共におられる」ということです。主は、同じ船の中にいて、同じ嵐の中にいてくださるのです。ただ、その中で、私たちがそのことを忘れてしまうとき、イエス様は眠ってしまっているのです。だからこそ、わたしたちが「助けてください」と叫べば、私たちが必要とすれば、そこに主は共にいてくださることに気が付くでしょう。そして、そのとき、嵐は静まるのです。私たちは、この共に生きてくださる救い主に、「助けてください」と叫びましょう。主は共に生きてくださっている。その恵みを受け取りたいと思います。(笠井元)

2018年

11月

03日

2018.11.4 「嵐の中で共におられる方」(要約)  マタイによる福音書8:23-27

1:  従った弟子たち

 イエス様は船に乗りこまれました。この後イエス様は向こう岸のガラダ地方に着かれたのです。ガラダ地方とは異邦人の住む場所です。当時のユダヤの民は「異邦人は汚れている、関わってはいけない」と考えていました。そのような中でイエス様は異邦人の住む場所に向かい船に乗りこまれたのです。このイエス様に弟子たちは従ったのです。「従う」という言葉はここには記されていませんが、基本的には「一切を捨てて」ということを意味する言葉です。弟子たちは一切を捨ててイエス様に従ったのでした。

 

2:  マタイの教会の状況

 イエス様と弟子たちを乗せた船は、マタイが記された当時の「教会」を表していると言われています。当時のマタイの教会は、外からはローマ帝国とユダヤ教による迫害があり、また内からは、意見の違い、キリスト理解の違いからの内部分裂などがあり、まさに嵐の中にあって、壊れそうな船という状態にあったのでした。このことはどのような時代にあっても、教会は基本的に嵐に襲われている存在としてあるのです。

 

3:  嵐に出会う人生

 私たちは、それぞれの人生において、嵐のような困難に出会うのです。それは、私たちがイエス・キリストを信じたから嵐に遭わないことになるわけではないのです。私たちの人生には嵐が襲ってくるのです。嵐に出会う時、私たちは何をすることができるでしょうか。 

 

4:  「主よ、助けて下さい」

 弟子たちは嵐の中で、イエス様に「主よ、助けてください」と叫んだのでした。嵐に出会うまで、弟子たちは隣にいるイエス様を寝かした状態、必要にしない状態だったのではないでしょうか。嵐の中、慌てふためき、どうしようもできなくなった時ようやく弟子たちは隣にイエス様がおられたことを思い出したのです。そして「主よ、助けてください」と叫んだのです。イエス・キリストを必要としたのでした。ここでは「主よ、助けてください」と叫ぶことを教えているのです。

 

5:  共に生きる方

 イエス様は嵐を凪とされた。それはどのような困難も超自然的な力をもって打ち砕く、いわゆるスーパーマンのようなヒーロー的な救い主ではないのです。イエス・キリストによる救いとは、キリストが自らの命をかけてまで私たちを愛されたという行為によるのです。私たちが本当に苦しい時、そこにイエス・キリストは共にいてくださるのです。どのような嵐の中にあっても、主は共にいてくださるのです。共に生きてくださる救い主に「助けてください」と叫びましょう。(笠井元)

2018年

10月

24日

2018.10.24 「働き人」  出エジプト記31:1-18

1: 神様による任命

 7節から幕屋や、幕屋で礼拝をするための道具や、祭司の服などを作るように記されています。作り方は、25章からとても細かく記されてきましたが、実際に言葉の説明だけでものを作るのはとても難しいことです。今日の箇所は「技術者の任命」となっていますが、3節では「神の霊を満たし」「知恵と英知と知識」(3)を持たせるといいます。

 岩波訳の注釈では「旧約聖書における知恵(原語ホフマー)は、単に知識や思考力といった知的能力だけでなく、実践的・実際的な問題解決能力や、さらには職業上の手腕や技術的熟練度をも意味し得る」と書かれています。技術者は神様の霊に満たされ、知恵、知識だけではなく、実際に幕屋などを作るための能力が与えられたのです。 

 

2: 何のために造るのか 偶像?

 一つ問題なのは、これらが偶像を造ることになるのではないかということです。神様は十戒の第二戒において偶像を造ること、礼拝することを禁止されています。宗教改革の一つのひきがねとなった出来事として、教会堂の建築のために不正に献金をさせたということもありました。「神様を礼拝するため」という内実が抜けてしまうことによって、建築することが偶像化してしまうことがあります。ただ、実際に自然や生き物など、視覚的要素から神様を感じることはあります。建物や芸術、また音楽などから、神様を感じることもあります。

 

3: それぞれに与えられている 賜物

 6節では「助手」として「ダン族のアヒサマクの子オホリアブ」が任命されます。神様はただ命令するだけではなく、そのために必要な人間を呼び集め、必要な賜物を与えてくださったのです。賜物は、それぞれに違いがあり、建築家であっても、ひとりはリーダーシップを持つ者、ひとりは助手として働く者がいます。神様は、幕屋を作るために、必要な賜物を持つ人間を集めてくださいました。

 

4: 働くことと安息日(12-18)

 神様は働くことの最後に「安息日を守ること」を語ります。安息日を守ることは神様によって与えられた「永遠の契約」です。つまり神様に向き合う大切な時間、礼拝の時なのです。幕屋作り、礼拝道具、祭服作りなどは神様の命令によって働くのですので、働き続けていれば神様に従っていると感じてしまうでしょう。「神様のために」として働くことで、それがいつの間にか自分の仕事の結果、自分の能力、達成感を大切にしてしまうことがあるのです。

 働くことは大切です。しかし、何よりもまず、神様との関係を守り、神様のために生きる。神様と向かいあい、そのために働くのです。そのことを思い起こさせるために、最後に安息日の厳守が教えられています。(笠井元)