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2019年

3月

17日

2019.3.17 「収穫の主に祈る」(全文)  マタイによる福音書9:35-38

1:  飼い主のいない羊

 今日の箇所36節でこのように言われます。【9:36 また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。】イエス様は、35節にあるように、町や村を回り、会堂で教え、福音を宣べ伝え、また病気を癒されたのでした。そのうえでイエス様は、この36節において、群衆を見て、その群衆が飼い主のいない羊のように、弱り果て、打ちひしがれていると思われたのでした。

 ここで言う群衆とは、狭い意味で言えば、当時イエス様が回られた町や村、その人たちと見ることができます。また、もう少し広げてみますと、当時のイスラエルの民全体、ローマに支配され、苦しむ人々と見ることもできるでしょう。旧約聖書では、神様を羊飼いとし、その羊飼いに養われているイスラエルの民という描写がいくつもありますので、そのようにイスラエルという羊が、飼い主のいない羊のような状態であると理解することもできます。

 そのうえで、今日は、ここで言われている群衆という人々の意味を、もっと広い意味として、私たち人間すべての者という意味として見ていきたいと思うのです。イエス様はこの群衆、つまり私たち人間を見て、「群衆は弱り果て、打ちひしがれている者」と感じたのでした。

 最近は、少しずつ春が近づいてきて、ぽかぽかで、温かくもなってきました。ただ、この冬から春という時季は、気温の変化も大きく、肉体的にも、精神的にも疲れを覚える時と言われています。温かくなること、明るい陽射しがあることは、良いこともあれば、それが疲れの原因となることもあるのです。イエス様は「群衆は弱り果て、打ちひしがれている者」と見られたのです。このイエス様の言葉は、ただ肉体的に、精神的にだけ弱り果てている、力尽きているということを意味しているのではないのです。この弱り果てた人間の姿。それはイエス・キリストという神様の愛に繋がる者からして、その姿が、弱り果て、傷つき、疲れ切っている姿として映ったのです。つまり、群衆、私たちが神様の福音、愛から離れている者として「弱り果てている」と言われたのでした。

 イエス様は「飼い主のいない羊のようだ」と言われました。ここでいう、飼い主とは神様のことです。そして羊とは私たち人間のことです。私たち人間は神様という飼い主を見失ってしまっている。神様の愛を見失っている。そのように、飼い主のいない羊のように、守り、養い、生きる道を示してくださる飼い主、羊飼いを見失っている羊のように、人間が神様を見失っていることを教えているのです。

 

2:  生きる目的

 最近はテレビやインターネット、本や雑誌でも、「人間は何のために生きているのか」ということについて様々な「生きる目的」が記されています。この前、面白い質問がありました。「人生の目的を知るための5つの質問」というものです。5つの質問に答えることで自分の生き方がわかるという質問です。今日はその5つの質問を聞いてもらおうと思います。皆さんも少し考えてみてください。一つ目の質問は「あなたは誰ですか? 」という質問です。ここは難しく考えないで自分の名前でいいようです。二つ目は「何をしますか?」という質問です。あなたの趣味、あなたがしたいこと、あなたの仕事など、その中で一番したいことはなにかということです。三つ目の質問は「誰のためにそれをするのですか?」という質問です。皆さんはどのような答えになるでしょうか。四つ目の質問は「相手は何を欲していて、何を必要としていますか?」という質問です。そして、最後の質問は「結果としてどう変わりましたか?」というものでした。

 この質問は、生き方が明確になるために「自分は誰であり、誰のために、何をするのか」そして、それが「どれだけ影響を与えているか」ということで、ここでは、そのことから自分が社会で、他者とのかかわりにおいて、生きている価値を知り、自己肯定感を高めるということです。「誰のために、何をするのか」この問いかけに対して、皆さんはどのように答えるでしょうか。

 先日のテレビでは、「最終的に人間は自分の心に嘘をつくことなく、自分がしたいことときちんと向き合い、その道を生きることが大切だ」というようなことを言っていました。私はこのような言葉はあまり好きではありません。この「自分のしたい事を見つけて、その道を生きること」それは、自分の命は自分のものであるという、神様を忘れた言葉だと思うのです。人間が、自分がしたいことだけをしてしまって・・・大丈夫なわけがないのです。自分の欲望を中心に、したいことをしたいように生きていたら、どれだけ大変な世界になってしまうのでしょうか。

 ある意味、赤ちゃんは「したいことだけをする」でしょう。そこから、この教会にも附属幼稚園がありますが、幼稚園生では集団生活を送ることで、自分の気持ちと他人の気持ちを考えて、どちらをどれだけ優先するかということを学び始めるのです。幼稚園生、そして小学生などには、その方向を示し、間違ったときにはその道を修正する先生がいます。先生は自分の気持ち、また他者の気持ちを考えるように教えます。ただ、大人になると、そのような先生がいなくなりますので、また「したいことだけをする」赤ちゃんのようになってしまうのでしょうか。大人の人間が、自分がしたいことをすることして、世界に争いを起こし、人が人を傷つけ、秩序を無視し、自然を破壊して、世界を壊していってしまうのではないでしょうか。自分がしたいことだけを行うということは、とても自己中心的で、とても危険なことなのです。そして、実際にそのように生きているのが、私たち人間の姿だと思うのです。つまり、これこそが、イエス様が言われた「飼い主のいない羊」「弱り果て、打ちひしがれている」人間の姿です。それは「神様の愛を見失った羊」、「愛すること、愛されていること」を見失った人間、そして私たち一人ひとりのことなのです。

 

3:  イエスの憐み

 イエス様はこのような人間を憐れまれました。この憐みはイエス・キリストが心の底から痛みを覚えられ、自分自身が苦しみ、痛み悲しまれていることを意味します。イエス様は、この人間の自己中心的な姿をみて憐れまれたのです。先ほどの5つの質問をイエス様が答えるとしたら・・・として少し考えてみました。一つ目の質問、「あなたは誰ですか? 」には「神の御子であり、神であり人間であるイエス・キリストです」となります。そして二つ目「何をしますか?」という質問には「愛する、今日の箇所で言えば憐れむ」と答えるでしょうか。違う言い方をしますと「神様と人間を繋ぐ」とも言うことができるでしょうか。もう少し具体的に言えば「十字架で死に、復活して、人間を愛し救い出す」と言うこともできるでしょう。そして三つ目に「誰の為にするか?」という問いは、「神様のため」「人間のため」となるでしょう。そして四つ目の「相手は何を欲しているか」という質問には、「人間は心の中に、自己中心に生きることを欲し、ただ、それだけではなく、どうしていいかわからない、どこに向かえばいいのか、何を欲していけばよいのかわからない思いもある」となるのだと思います。そして最後の質問「結果どうなるか?」という質問では「結果、十字架と復活をもって無理解な人間のために、自らが死に、神様の愛に気付くことを期待して、待ち続けている」となるのだと思うのです。

 つまり、イエス・キリストの憐みは、無理解で強情で傲慢で自分勝手だけど、心のどこかに寂しさや痛みを持ち、愛を必要としている人間のために、祈り続け、その愛を素直に受け止め、心を開くことを待ち続けている。そのようなイエス様の心をいうのだと思うのです。イエス・キリストは、私たちのこと、自分勝手でありながらも、その弱さに苦しんでいる人間のことを心の底からの痛みを持って、愛して、共に苦しみ、憐れんでくださっているのです。

 

4:  収穫は多い

 この憐れみの主は「9:37 収穫は多い」と言われたのです。「収穫は多い」これが群衆を見たイエス様の言葉です。この時、羊は「飼い主を見失い、悲惨で、絶望的な状態」にあったのです。人間は困難の中で絶望している。しかし、そこにイエス・キリストは「収穫は多い」と言われるのです。つまり羊である私たち人間が絶望する中、飼い主であるイエス・キリストは絶望するどころか、そこに「収穫が多い」と希望をみているのです。私たち人間にとっての困難の時、「もはやどうすることもできない、八方ふさがりだ」と思う時、イエス・キリストは、「絶望することはない、必ずここから希望がある」と見ておられるのです。これからの時代に、私たちはどのような希望をみることができているでしょうか。みなさんは何に希望をもっているでしょうか。

 日本政府の調査では、自分の将来に希望を持っているかという質問に対して、諸外国に比べて日本の若者は特に低く6割程度しか、将来に希望を持っていないということです。その理由としては自己肯定感の低さ、また国や社会の将来に明るいイメージが持てない、働くことに不安がある、などといった理由があるということです。確かに、私自身、将来の不安を考えだしたらきりがありません。私が特別に大きな不安に感じていることは、【未来を考えない自分勝手な行為】です。それは、人間の科学技術の発展と、自然破壊については大きな不安を感じています。

 しかし、そのような時代において、イエス・キリストは「収穫は多い」と言われます。この先に希望が満ち溢れていることを教えてくださっているのです。私は、このイエス・キリストを根拠にすれば、どれほどの不安や絶望があっても、未来は希望で満ち溢れていると見ることができると思うのです。未来に何があるかは人間にはわかりません。それでも、神様が人間を愛してくださり、この神様によって生かされ、そして守られている。この神様の愛、イエス・キリストを信じるならば、必ずそこには希望があるでしょう。 

 聖書ではこのように教えます【5:1 このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、5:2 このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。5:3 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、5:4 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。5:5 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。】(ローマ5:1-5)

 イエス・キリストを基とした信仰による希望。その希望はわたしたちを欺くことはないのです。

 

5:  収穫の主に祈る

 そしてイエス様は「9:37 収穫は多いが、働き手が少ない。9:38 だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」と言われました。イエス様は、絶望の中にあって、「収穫は多い」と言われました。そして「収穫のために、働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」つまり「神様に願いなさい」「祈りなさい」と教えられているのです。収穫する。それは神様を離れ、神様の愛を忘れた人間、そして強情で、自分勝手で自己中心な人間。その人間がもう一度、神様の愛に心を開き、そのイエス・キリストの憐みによる恵みを受け取るということです。回りくどいので、一言で言えば、「神様に愛されていることを受け入れる」・・・「悔い改め」と「従順」ということです。イエス様は、この収穫の為に「働き手となりなさい」とは言われていないのです。そうではなく「働き手を送ってくださるように」・・・「願いなさい」、つまり「祈りなさい」と言われているのです。「働き手」、「収穫する者」、「人間の心を開くことができる方」、それは神様しかいないのです。つまり収穫のための働き手、それは神様ご自身です。私たちにできることは、その働き手が送られるように祈ることです。それは自分自身を含め、隣人、そして世界のすべての人間が、神様の愛を受け入れるために、祈り、祈って、祈り続けることです。私たちができる一番、大きな働きは祈ることです。  私たちは収穫の主がこられ、多くの収穫があるように、祈りましょう。そして祈り続けて行きましょう。そこに神様による希望の未来が開かれるでしょう。

 最後に宗教改革者ルターの言葉を読んで終わりたいと思います。【真剣で熱心な祈り、最後の瞬間まで止むことも疲れることもなくじっと待ち望む祈りは、ついには天地を貫き、聞き届けられないはずはあり得ない。なぜなら、私たちが自分の思いや理解を越えて祈りに頼ることは、神へのすばらしい捧げ物だからである。ちょうどパウロが、エフェソの信徒への手紙三章で、神は「私たちが求めたり、思ったりすることすべてをはるかに超えてかなえることがおできになる」と言っている通りである。ものごとが全てうまくいかなくなって、あらゆる計画や熱意が無駄になったとしても、あなたは、神から離れることのないようにしなさい。なぜなら、神は死や無からすべてを呼び出されるからであり、救いも望みももはやないというところから、神の救いがようやく始まるからである。あなたがそのように祈ってそれでも何も感じなかったなら、私を嘘つきだと言いなさい。神は、それほどすぐにではないが、あなたの心が慰めと力を感じている間に、あなたが望んでいたよりはるかに豊かに、あなたにお与えになるであろう。】(笠井元)

2019年

3月

17日

2019.3.17 「収穫の主に祈る」(要約)  マタイによる福音書9:35-38

1:  飼い主のいない羊

 イエス様は群衆を見て、「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」と思われました。イエス様は私たち人間を見て「弱り果て、打ちひしがれている」と感じたのでした。私たち人間は神様という飼い主を見失ってしまっている。飼い主のいない羊のように、守り、養い、生きる道を示してくださる飼い主神様を見失っているのです。

 

2:  生きる目的

 「人間は何のために生きているのか」。皆さんはどのように答えるでしょうか。自分が本当にしたいことを思うようにすることを勧める言葉もあります。しかし、人間が自分のしたいことだけを行うということが世界に争いを起こし、人が人を傷つけ、秩序を無視し、自然を破壊して、世界を壊していってしまうのではないでしょうか。それが私たち人間の姿だと思います。

 

3:  イエスの憐み

 イエス様はこのような人間を憐れまれました。イエス・キリストの憐みとは…無理解で傲慢で自分勝手だけど、心のどこかに寂しさや痛みを持ち、愛を必要としている…人間が心を開くことを待ち続け、祈り続けている心です。イエス・キリストは自分勝手でありながらも、弱さに苦しんでいる人間のことを心の底からの痛みを持って憐れんでくださっているのです。

 

4:  収穫は多い 

 「収穫は多い」。これが群衆を見たイエス様の言葉です。羊は「飼い主を見失い、悲惨で、絶望的な状態」にあったのです。人間にとっての困難の時、イエス・キリストは「絶望することはない、必ずここから希望がある」と見ておられるのです。今の時代、希望よりも絶望を探したほうが早いかもしれません。そのような時代においてイエス・キリストは「収穫は多い」と言われます。未来に何があるかはわかりません。ただ神様の愛、イエス・キリストを信じるならば必ず未来に希望があります。

 

5: 収穫の主に祈る

 イエス様は「収穫のために、働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。祈りなさい」と教えられています。イエス様は「働き手を送ってくださるように祈りなさい」と言われているのです。収穫のための働き手は神様ご自身です。私たちにできることは、自分自身を含め、隣人、世界のすべての人間が、神様の愛を受け入れるために祈り続けることです。私たちは収穫の主がこられ多くの収穫があるように祈りましょう。

(笠井元)

2019年

3月

12日

2019.3.13 「わたしの証人となる」 使徒言行録1:1-11

1: ルカから使徒言行録へ

 使徒言行録の著者は、ルカによる福音書の著者と同一人物ルカと考えられています。二つの書は、最初はイエス様、次は使徒たちがどのように生きたかを記しています。二つの書は「いつ」「どこで」「なにがあったか」ということを正確に伝えようとしているのではなく、イエス・キリストを中心とした福音を伝えるための書物です。

 今日の箇所はイエス様の働き「十字架」と「復活」から「ペンテコステ」へ、そして「使徒の働き」「全世界に広がる神様の福音」の出来事へとつなげられていきます。

 

2: 終末の遅延

 使徒たちは「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」(6)と尋ねました。著者ルカの意図はただの「イスラエル王国の再建」を求めたのではなく、「神様の愛を基とした正しい秩序の世界」を求めた言葉と受け取ることができます。世界が神様の愛という価値観のうちに満たされて建て直されていく。そしてその愛を土台とした世界の完成が「終末」の到来となるのです。「終末」はいつくるのか、それは「あなたがたの知るところではない」(7)という言葉は、期待の中における終末、再臨の遅延への理解を含めた言葉となるのです。

 

3: 福音を伝えることによる終末の始まり

 終末、そして再臨の出来事が遅れていくなかで、「何をすればよいのか」という疑問に対して、「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」と教えます。イエス・キリストを宣べ伝えることによって、キリストの輪を広げていくことが、すでに「終末」の始まりなのです。

 

4: 福音の証人となる

 終末の遅延における生き方、終末の始まりを生きるために「聖霊による力」が必要だと示されます。使徒言行録の、一番最初に、「イエス・キリストの証人、福音の証人となる」ことが示されています。そのために「聖霊を受ける」ことが必要だと教えます。

 

5: 昇天

 9節から「昇天」のことが語られていきます。「昇天」の出来事はマタイ、ヨハネの福音書には記されていません。マルコでは16:19-20において記されていますが、〔〕がつけられ、二次資料として扱われているものです。ルカでももともとは二次資料とされていたようです。

 「昇天」の意味ですが、一つに聖霊の降臨の前提だということができます。聖霊としてのイエス・キリストの存在は、この世のどこかに限定されないことを表します。もう一つとして、イエス様が天に昇るということから「再臨」という希望の出来事を示します。

 イエス様の昇天の出来事は希望の出来事です。希望を待ちつつ、聖霊を受けて、福音を宣べ伝えていく使徒の姿がこれから始まっていくのです。(笠井元)