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TEL:092-651-3978

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2019年

9月

15日

2019.9.15 「生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください」(要約) 詩編90:1-7

1:  創造主を賛美する

 敬老感謝礼拝というときに、これまで命を守り、今も命を与え、恵みで満たしてくださる神様を共に賛美しましょう。今日の詩編の詩は、まず創造主なる方を賛美します。詩人は「神が、この世界を造られた。世々とこしえに、あなたこそ私たちの造り主です。」と賛美します。神様は人間をご自身にかたどって創造されました。それは人間が神様と向き合い、神様の愛を受けて、神様を愛する者として造られたということです。わたしたちは神様に愛されている存在なのです。

 

2:  人間の価値観で見る人生

 3節から人生のはかなさ、苦しみを詠います。私たち人間の人生には終わりがあります。人間はいずれ「塵」に返される者なのです。人間は有限なる者です。それに対して神様は無限なる方です。私たちは、自分の思いを超えた方によって命を与えられているのです。

 7節から人間の罪と、罪に対する神様の憤りを認め、8節では、わたしたちの罪は神様の前に置かれることを語るのです。私たちがどれほど神様から離れようとしても、神様の前から離れることはできないのです。

 

3:  神を畏れる

 11節から、神様の目線で人生を見ることができるように、知恵ある心を求めるのです。神様から離れて見てきた、「労苦しかなく虚しい」という人生観から、本当に見るべき正しい価値観、神様に造られた者として人生を見ていく知恵を与えてくださいと求めているのです。

 自分にとってみれば、ただの虚しい人生だと思っているとしても、神様を畏れ敬う時に、「あなたの人生はとても豊かな人生であり、愛に満ち溢れている」「あなたは大切な存在である」ということを知ることができるのです。

 

4:  主よ帰ってきてください 

 13節から「主よ、帰ってきてください」と願います。私たちはイエス・キリストを送ってくださるように願うのです。「主よ、帰ってきてください」そして「朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ、生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください。」(14)と願い求めるのです。神様は、この「主よ、帰って来てください」という願いに応えてくださり、イエス・キリストを送ってくださったのです。私たちはイエス・キリストによって、守られ、生かされていることを覚えて、喜びのうちに生きていきたいと思います。(笠井元)

2019年

9月

15日

2019.9.15 「生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください」(全文) 詩編90:1-7

1:  創造主を賛美する

 今日は、敬老感謝礼拝です。敬老の日といえば、一般的には、「長い人生を生きてきた、人生の先輩を敬う日」という意味となるでしょう。もちろん、教会においても、これまで、神様に命を養われ、その恵みと慈しみのうちに、生きてこられた方々を敬うことを覚えたいと思います。ただ教会は、敬老感謝礼拝という、神様の礼拝の時です。なによりも、長い人生を生かされてきた、その命を与えてくださった方、命の造り主なる神様を礼拝し、賛美したいと思います。これまで命を守り、今も命を与え、日々、恵みで満たしてくださる、神様、創造主を共に賛美していきましょう。

 今日の詩編の詩(うた)は、まず創造主なる方を賛美します。【90:1 主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。90:2 山々が生まれる前から、大地が、人の世が、生み出される前から、世々とこしえに、あなたは神。】(1-2)詩人はまず、「神が、この世界を造られた。世々とこしえに、あなたこそ私たちの造り主です。」と賛美します。詩人は世界の創造主を賛美しました。創造主なる方を賛美するということは、世界を含め、自分の命も神様によって造られたことを認めることです。自分の命は神様に造られ、今も生かされているという、信仰を告白した言葉、つまり、信仰告白なのです。ここで詩人はまず、創造主を賛美した。それは信仰告白をしたということなのです。わたしたちの命は、神様によって創造されたのです。そして、私たちの命は、この神様によって守られているのです。

 

 7月には3名のバプテスマがありました。バプテスマは、イエス・キリストを自らの主と信仰告白して、これから神様の恵みの道を歩んでいくという決心の時、恵みの時です。先日のバプテスマという、神様の恵みに感謝したいと思います。また、同時に、バプテスマは、この教会につながる者となることでもあります。私たちはこの教会の兄弟姉妹として、共に祈っていきましょう。神様からの恵みと喜び、そして時に、苦しみや痛みをも、共に分かち合い、共に祈り合い歩んでいきたいと思うのです。この7月のバプテスマに向けて、4月から3ヶ月ほど学びを行いました。もちろん創造主なる神様についても学びを行いました。聖書は、神様が世界を創造されたことは、「どのように」ではなく、「なぜ」造られたかを教えているのです。創世記1:27ではこのように言われています。【1:27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。】(創世記1:27)神様は人間を自分にかたどって創造されたのです。それは神様と向き合い、神様の愛を受けて、また神様を愛する者として、わたしたちが造られたということです。

 わたしたちは神様に愛されている存在なのです。私たちは創造主なる神様に命を与えられている。私たちは神様に造られて生かされている者なのです。そして、私たちの生きるその目的は、神様と向き合い、神様の愛を受けて、神様の「愛」という「栄光」を表すためであり、その時間も、財産も、すべてのものは神様にいただき、神様に献げ、神様を愛を表すために生きている、そのために、私たちは、創造されたということを学びました。

 

2:  人間の価値観で見る人生

 先ほど言いましたが、私たちは神様に創造され、生きる目的は、神様の愛の栄光を表すためです。わたしは、親がクリスチャンですので、生まれた時から、「あなたの人生は、神様の栄光を表すためですよ」と言われてきました。そして、この言葉が何よりも嫌いな言葉でした。「神様は、人間を自分のため、自分の栄光を表すために造ったのか。」「自分は神様のため、そんなことのために生きているのではない」「自分には自分の生きる意味がある。」「自分の生きる意味は自分で見つけていく」と思っていました。だいぶ前の話になりますが・・・わたしがまだ高校生くらいの頃は、「自分探し」という言葉が流行っていました。サッカーの日本代表選手の中田英寿選手も、ワールドカップを終えて、サッカー選手を引退した時に、「自分探しの旅にでます」と言ったのでした。「自分探し」。つまり「自分の生きている意味を探し求めて生きる」ということです。わたしも、「自分の生きている意味」をずっと探していました。ただ、何をしても、どれだけ、自分の生きている意味を探しても、すべては自己実現、自己中心的なことから離れられないのです。

 

 今日の詩編90編、3節からは、その人生のはかなさ、または苦しみを詠うのです。3節から6節においては、人間の命の有限性、はかなさを、そして7節からは、その人生の労苦と災いを語ります。神様の前にあっては、人間はどこまでも無力であり、罪人でしかないことを語るのです。私たち人間の人生には終わりがあります。人間は「いずれ枯れていく」者であり、いずれ「塵」に返される者なのです。人間は有限なる者、終わりを持つ者です。それに対して、神様は「無限」なる方です。つまり、人間の労苦の道は、永遠に続くのではなく、終わりがあります。そして、いずれその人間の思いを超えた、無限の愛の方、神様の愛の恵みの時が訪れるのです。私たちは、自分の思いを超えた方によって命を造られ、愛され、恵みを与えられている。そして命の終わりの時は、「虚しい時」ではなく、神の御許での、愛の始まりの時、恵みの時なのです。この人間の「有限性」は「むなしさ」を意味しているのではなく、いずれ神様の愛に包まれる時がくるという「希望」を教えているのです。

 7節からは、人間の罪と、その罪に対する神様の憤り、怒りを認めていく詩(うた)となっています。聖書における「罪」とは、ただ何か悪い行いをしたということではなく、もっと心の根っこのところから、神様の御心から離れてしまうこと、神様の求める道ではなく、自分勝手に生きることを「罪」というのです。わたしたち人間は、「罪」から逃れることはできないのです。それは、社会的な地位を持つ人でも、どれほどのお金持ちでも、また、この世において大きな罪を犯した者も、牢屋に入れられている者だとしても、だれも変わることはなく、神様の前にあっては、同じ罪人なのです。つまり、私たち人間の心の中にあるのは、自分勝手に生きること、自分の為に生きること、私がずっと探していた、自己実現のために生きることであり、それは神様の御心から離れてしまっている者なのです。

 そのような私たちに、8節では【90:8 あなたはわたしたちの罪を御前に、隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。】(8)と言います。この言葉は、私たちは神様から逃げることはできないことを、教えています。私たちがどれほど神様から離れようとしても、神様に抗い、神様に反抗して生きていこうとしても、神様の前から離れることはできないというのです。私たちは、必ず、神の光の中に置かれるのです。

 

3:  神を畏れる

 私たちが自分の人生を、自分の目線で振り返ると、自分の思い通りになっているというよりは、むしろ、「労苦と災いばかり」を受けて生きてきた、そして今も生きていると思うことがあるかもしれません。そのような私たちに、詩人は11節から、神様の目線で、人生を見ることができるように、求めていくのです。

 【90:11 御怒りの力を誰が知りえましょうか。あなたを畏れ敬うにつれて、あなたの憤りをも知ることでしょう。90:12 生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。】(90:11-12)

 

ここでは「神様を畏れること、人生の日々を正しく数えるように、正しく見ることができるように、知恵を与えてください」と詠います。「神様を畏れ敬う者として生きることができますように」ということです。詩人は、神様から離れて見てきた、「嘆き、労苦、虚しい人生・・・」という人生観から、本当に見るべき正しい価値観。神様を畏れ、神様に造られた者であり、神様によって命を養われている者として、人生を見ていく、その知恵を与えてくださいと求めているのです。自分にとってみれば、ただの虚しい人生だと思っているとしても、そのようなむなしさの中でも・・・神様を畏れ敬う時に、「あなたの人生はとても豊かな人生であり、愛に満ち溢れている」「あなたは大切な存在である」と、神様が、私たちに命を与えてくださっている本当の意味を知ることができるのです。神様の価値観、神様の知恵によって人生を見ることを教えられるのです。11、12節において、生きる本当の価値観を教えてくださいと求め、その知恵を教えてくださいと求めるのです。今日は、私たちが生きるための価値観、その人生の見方を考えさせられる一つの詩を読みたいと思います。

 

【ニューヨークの病院の壁に書き残された詩】として、作者は不明の詩です。

大きなことを成しとげるために、力を与えてほしいと神に求めたのに

謙遜を学ぶようにと、弱さを授かった

より偉大なことができるようにと、健康を求めたのに

よりよきことができるようにと、病弱を与えられた

幸せになろうとして、富みを求めたのに

賢明であるようにと、貧困を授かった

世の中の人々の賞賛を得ようとして、成功を求めたのに

得意にならないようにと、失敗を授かった

人生を享楽しようと、あらゆるものを求めたのに

あらゆることを喜べるようにと、いのちを授かった

求めたものは一つとして与えられなかったが

願いはすべて聞き届けられた

神の意に添わぬ者であるにもかかわらず

心の中で言い表せないものは、すべて叶えられた

私はあらゆる人の中で、もっとも豊かに祝福されていたのだ

 

この詩は、失ったことや対極を知ったことによって、その本質の尊さや豊かさに気づくことができた。そんな命の豊かさの意味を伝えてくれます。人間の価値観では、悪い事だと思っていることも、神様の目からみると、そこにも神様の恵みがあるのです。神様は、私たちを愛して、日々の命を与えてくださっているのです。私たち人間が生きる意味は、ただ「神様の『愛』という栄光を表すため」です。神様を愛し、隣人を愛して生きていく。それ以外にはないのです。

4:  主よ帰ってきてください 

13節からはこのように詠います【90:13 主よ、帰って来てください。いつまで捨てておかれるのですか。あなたの僕らを力づけてください。90:14 朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ、生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください。90:15 あなたがわたしたちを苦しめられた日々と、苦難に遭わされた年月を思って、わたしたちに喜びを返してください。】(13-15)

13節からは【主よ、帰ってきてください】と願います。それは最終的に、イエス・キリストを送ってくださるように願う言葉となります。【主よ、帰ってきてください】(14)。わたしたちは、「私たちの救い主であるイエス様。私たちの所に来てください。御国を来たらせたまえ。愛の満ち溢れる世界を与えてください」と願っていきたいと思います。そして【朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ、生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください。】(14)と願い求めるのです。

わたしたちの人生には、確かに苦しみや痛みがあります。それは神様を信じても、イエス様を信じても、変わることはありません。しかし、神様は、この「主よ、帰って来てください」という願いに応えてくださり、この世界にイエス・キリストを送ってくださったのです。イエス・キリストの人生。それはまさに人間としての苦しみと痛みを受けた人生でした。時に、苦しい者、罪ある者とされる人々と共に生きて、病の中にある者と共に生きたのです。

私たちは、自分が苦しい時、その苦しみを主イエス・キリストが共に担ってくださっていることを覚えたいと思うのです。私たちが、自分の生きている意味、希望を失う時、イエス・キリストは、私たちと共にいてくださるのです。私たちは、このイエス・キリストによって、日々守られ、生かされていることを覚えましょう。そして、喜び歌い、喜び祝う者として生きていきましょう。人生には、苦しみがあるのです。しかし、そんな時にこそ、神様、【生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください。】と願い求めましょう。そして、その願いに神様が応えてくださることを信じていきましょう。神様は、確かに私たちの人生に、イエス・キリストを送って下さいました。私たちは、このイエス・キリストによる神様の慈しみを受けとり、信じて、日々歩んでいきたいと思います。(笠井元)

2019年

8月

31日

2019.9.1 「無限に広がる小さな福音の種」(全文) マタイによる福音書13:31-35

1:  天の国

 今日の箇所を含め、13章では「天の国は・・・」といった語りかけから、「天の国」が様々なものに譬えられていきます。まず今日の箇所では、「からし種」と「パン種」に譬えられています。また先週共に学びましたが、24節からでは、「天の国は次のように譬えられる」として、「良い種が蒔かれた畑に、敵が来て毒麦を蒔いていった。しかし、すぐに毒麦を抜くのではなく、『刈り入れまで両方とも育つままにしておきなさい』そして『刈り入れの時に毒麦を焼き、麦を集めて倉に入れなさい』と言われた」というのです。」・・・先週はここから、神様の忍耐と、神の国を信頼し、待ち望むことを学びました。また、44節からは、「畑に隠された宝を見つけたこと」、「真珠の商人が良い真珠を見つけたこと」に譬えられ、また47節からは、「網にかかった魚で、良い物は器に、悪い者は投げ捨てられる」と譬えるのです。このほかにも、イエス様は、マタイによる福音書では20章、22章、25章においても「天の国」を様々な姿、形、または行為に譬えて教えられるのです。

 イエス様は様々な言葉で「天の国」を語られました。ではなぜこのようにさまざまな言葉で語られたのでしょうか。ひとこと「天の国とは、このようなものである」と言ってくだされば、とてもわかりやすいと思うのですが、イエス様はあえて、様々な言葉で「天の国」を語られました。 これは、イエス様がわざわざ、「天の国」をわかりにくくするために、いろいろなものに譬え、語られたわけではないのです。

 イエス様の言葉には、人間の言葉の限界性と、天の国の無限性を見ることができるのです。「天の国」。それは神様の愛の溢れる状態を意味するのです。そして、神様の愛の形は無限に溢れ出るものであり、人間の言葉一言では言い表すことはできないのです。

 

 先日、金曜日に、東福岡幼稚園では夕涼み会を行いました。今回は「オバケの国へようこそ」というテーマで行いましたが、その一つに「どんなおばけがいるのかな?ボックス」として、目で見ることはできない箱の中に、こんにゃくやたわしを入れておいて、そこに子どもたちが手を入れて、その手の感触で何かを当てていくというブースを作りました。年少さんなど小さな子どもたちの中には、実際に中に何が入っているのかがわからないので、怖がって手を入れられない子どももいました。年長さんくらいになると、中に危険なものが入っているとは疑わないで、サッと手を入れていくことができるようになります。そのなかで、手の感触だけで何かを考える時、「大きさや触った感触、暖かさや冷たさなど」で、何かを考えます。小さくて少しとげとげしている・・・とか、ニュルニュルして冷たいとか・・・など触ることによって、様々な情報を得て、それが何かを考えるのです。

 これは「天の国」が色々な言葉で譬えられていることと、少し似ているのではないかとも思うのです。一つの情報、たとえば「固い」というだけでは、いったいそれがどのようなものかはわかりません。触ることで、「固くて、小さくて、冷たくて・・・など」といろいろな情報を得て、イメージし、想像を広げていくなかで、それが何かを考えるのです。天の国。この神様の愛の溢れる状態は、私たち人間の言葉では完全には表すことができないのです。人間の言葉には、限界があるのです。限界があるもので、無限に溢れるものを表すことはできないのです。そのためイエス様は様々な譬えによって、「天の国」の一部分の特徴を語り、無限に広がる「天の国」神様の愛を教えられたのです。

 

2:  小さな種

 この天の国を表す譬えとして、今日の箇所では、「からし種」と「パン種」に譬えて語られました。 この「からし種」と「パン種」の共通しているのは、最初は、とても小さいものですが、それが成長することによって、とても大きなもの、またはとても大きく膨らませたりするということです。イエス様は、天の国、「神様の愛」は、それ自体はとても「小さなもの」に思えたとしても、「いずれ大きくなる」こと「その存在によって、大きく膨らませる」ようなものであると教えられているのです。

 

 私たちの生きるこの世界には、とても便利なものが溢れています。現代は、科学技術が発展したことによって、人間の生活も大きく変化しているのです。私は、大学は寮生活だったのですが、私が大学生のときは、ほとんど携帯電話が普及していないときでしたので、すべての人の電話は寮にかかってきました。そして、電話を取った人が、放送で呼び出して、呼び出された人が、電話で話すという形でした。たとえばですが「1年生、笠井元くん。お母さんから電話です。」と呼び出されるのですが、誰にいつ、だれから電話がきたことが、すべての寮生に伝わるのです。「1年生の笠井君。あなたの大好きな、お母さんからです」とか、呼び出す方も、少し悪ふざけをはじめることがありました。また、男子寮ですので、家族ではない女性から電話がかかってくると・・・みんなで、「あれは誰だ」「友だちか」「つきあっているのか」とお互いに聞きあっていました。プライベートも何もあったものではありません。ただ、今振り返ると、それもまた、お互いの繋がりを深めていたと思い出します。

 現在、電話は、携帯電話になり、スマートフォンになって、もはやカメラ、テレビ、音楽、パソコン、お財布と色々な機能が付いたため、もはや、つい電話であることを忘れてしまいそうになるほどです。私自身、最近は、少し、わからないこと、忘れたことがあると、すぐ検索してしまう癖ができてしまったので、考えること、思い出すことをしなくなってしまったように感じます。

 

 また、22世紀からきたロボットのアニメの「ドラえもん」では、考えられないような様々な道具が出されますが、今では、それが現実にできるようになってきているものが沢山あります。

 「ドラえもん」では「翻訳こんにゃく」というものがありましたが、そのこんにゃくを食べると、いろいろな言葉を話すことができるというものがありました。先日テレビを見ていると「AI」と「インターネット」を使った翻訳機の紹介をしていました。それでは、ひとことふたことではなく、長い文章を完璧に翻訳することができるようになったそうです。また「お天気ボックス」という道具で、天気を自由に変えることができるというものもありました。 昔は、てるてる坊主をつるすぐらいしかできませんでしたが、現在では、北京オリンピックのときに話題となりましたが、ロケットなどによって人工的に雨を降らせること、または別のところや別の日に降らせることで、晴れにすることができるようにもなったようです。

 本当に、現代の科学技術の発展はすごいものだと思うのです。そしてこれからも、もっともっと生活は便利になっていくだろうと期待もします。しかしまた、この科学技術の発展は、本当に人間の生活を豊かにしているのかは疑問があります。また、これほどに発達した世界のなかで、神様の存在はとても小さく、もはや必要ないと感じてしまっているのではないか、とも思うのです。

 

 旧約聖書の中にある、バベルの塔の話では、人間が、石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いることができるようになっていきます。つまり、技術の発達があったのです。そして、その時、人間は【11:4 「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。】(創世記11:4)のでした。自分たちの思いを超えた発達をしてくなかで、人々は、「天まで届く塔」を建てはじめたのです。それは、自分たちの力で神様にたどり着くこと、神様を超えることができると思い始めたということを表しているのでもあります。自分たちの技術の発達に傲慢になり、「天まで届く塔をつくろう」とする人々にとって、神様はどれほどの存在となっていたのでしょうか。それはまさに今日の箇所にあるように、「からし種」や「パン種」くらいに小さなものとなっていたのではないでしょうか。神様によって与えられている愛、命、希望、平和。そのすべてがとても小さく小さく思えていたのではないでしょうか。そしてそれは、今のこの時代、私たちの生きるこの時も、同じように感じるようになってしまっているのではないかと思うのです。私たちの為に蒔かれた小さな種。2000年以上も前に、蒔かれた小さなイエス・キリストという福音の種。今、この科学技術が発達した社会は、神様の与えてくださったイエス・キリストという福音の種を、見つけることができないほど、小さなものとしてしまっている。もはや見出すことができないほど、小さな存在としている、必要ないものとしているのではないでしょうか。

 

3:  汚れた種

 また、ここで記されている「パン種」には、「小さい」というだけではなく、もう一つの意味を読み取ることができます。パン種は当時のユダヤにおいては、聖なる物というよりは、むしろ汚れたものとして考えられていたと言うことができるのです。

 イエス様もマタイ16:6において【16:6 イエスは彼らに、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と言われた。】のです。神様の福音を受け入れない、ファリサイ派の人々、サドカイ派の人々を「パン種」と言いました。またパウロはⅠコリントにおいて【5:6 あなたがたが誇っているのは、よくない。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。 5:7 いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。】(Ⅰコリント5:6-7)と、このように言いました。そして、何よりも、ユダヤの民が奴隷として扱われていたエジプトから脱出したときに・・・神様は【12:15 七日の間、あなたたちは酵母を入れないパンを食べる。まず、祭りの最初の日に家から酵母を取り除く。この日から第七日までの間に酵母入りのパンを食べた者は、すべてイスラエルから断たれる。】と言われたのでした。このことから、ユダヤの民は、パン種を聖なる物から、不純なもの、汚れたものとして、取り除いてきたのです。パン種は、少しでも入っていると、民全体に悪い影響を及ぼす、悪いものの根源だと考えられていたと言えるのです。

 イエス様は、「天の国は」この「パン種」という汚れたもの、そしてすべてを汚してしまうとされるものに、似ていると言われたのです。汚れたもの、悪い者の根源に「天の国」があるとはいったいどのようなことでしょうか。それは、私たち人間が、汚れたものとし、必要のないとしているもの、捨てているもの、避けているものに、「天の国」が始まっているということを教えておられるのです。

 私たちは、今、何を汚れたものとしているでしょうか。私たちはどのような価値観で、これは「聖なるもの」、「清いもの」、「真実なるもの」として、また何を「汚れたもの」、「罪」、「悪」、「間違っているもの」としているでしょうか。

 この社会には多くの差別があります。人種差別、女性差別、障害者差別などいまだに多くの差別がなくならないのです。差別が起こる一つの理由として、「自分はあの人たちよりは正しい」「あの人たちは間違っている、汚れている」と考えていくところにあるのだと思うのです。

 

 わたしの父は沖縄の出身です。父から聞いた話で、少し曖昧な話になりますが、まだ第二次世界大戦がはじまる前に祖父は、沖縄から本土に来て、先生として働こうとしていたそうですが、その時に多くの差別を受けたそうです。その苦しい体験、本土の人々による沖縄への差別の嫌だった思いを、わたしの父、つまり祖父の息子に何度も何度も話したようです。そんな祖父が、あるときわたしの父にこのように言ったそうです。「沖縄の島の人とは付き合うな、本島の者と付き合うように」と教えてきたそうです。父は、差別を受けてきた祖父が、沖縄の中で、本当の人と島の人とを区別し、島の人を差別し、受け入れないことに驚き、人間の弱さ、罪の姿を見たそうです。人に差別され、汚れた者とされてきた者が、今度は、自分よりも小さく、汚れた者がいるとしたのです。

 もちろん、差別に反対し、共に生きることを求めて生きている人もたくさんいます。みんながみんな差別し、人を蔑視し、汚れた者としているわけではありません。ただ、神様は、そのような私たち人間が、間違った価値観で「汚れている」とするもの、「必要ない」とするもののうちに、「天の国」「神の愛」があると教えてくださっているのです。

 

4:  イエス・キリストという福音の種

 神様は「からし種」のように小さく、また「パン種」のように汚れたものとされるところに、「天の国はある」と教えられているのです。今日の箇所の31節に【人がこれをとって畑に蒔けば】(31)とあります。「人」とは「神様」ご自身を指しています。神様は、「からし種」、つまり「天の国」の種を蒔いてくださっておられるのです。

 神様の蒔かれた種。それはイエス・キリストという福音の種です。神様は、この世界に、御子イエス・キリストを送って下さいました。イエス・キリストは、神様の愛の恵み、そのものです。

 しかし、わたしたち人間は、神の子でありながら、この世界に人間として来られたイエス・キリストを、この世の一番小さな者、汚れた者、罪ある者として十字架につけていったのです。神様は、自らの子、イエス・キリストをからし種のように、小さく、そしてパン種のように、汚れたものとして、この世に送られたのです。ここに神様の愛が示された。ここに「天の国」が始まったのです。わたしたち人間が「小さく」「汚れた」ものとした、イエス・キリストです。しかし、その福音によって、私たち人間に天の国、神様の愛が無限に広がり始めたのです。

 ローマ5:6-8【5:6 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。5:7 正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。5:8 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。】

 神様のこの愛の行為は、すでに始まっているのです。私たち人間には気が付かないとしても、そこに神様は、すでに働かれているのです。

 私は、毎日、失敗や間違いだらけの日々ですが、先日、私は大きな失敗をしてしまいました。そのため、だいぶ落ち込みました。それこそ、自分の小ささに打ちのめされた感じでした。牧師が言うことではないかもしれませんが「自分はここで生きていていいのだろうか」と思うほどでした。ただ、それでも、自分の小ささに打ちのめされたときに、どうしてよいかわからないほどに、自分を嫌いになるところに、このイエス・キリストという福音の種は蒔かれているということを教えられました。ある意味、それまでは、「バベルの塔」を造ったように、自分の力で生きていける、神様などは必要ないと、神様を小さな小さなものとしてしまっていたのでしょう。しかし、いざ自分が小さい者であることに気付かされる中で、そこにイエス・キリストが来てくださっている、その神様の愛を教えられたのでした。

 わたしたちが生きるこの時、この場所に、すでに「天の国」は始められているのです。私たちは、イエス・キリストによって注がれている神様の愛をいただきましょう。自分が小さい者、無力で、弱い者、だと感じているならば、だからこそ、そのような私たちを愛してくださっている方を求めていきたいと思うのです。主イエス・キリストという福音の種は、蒔かれました。私たちはその恵みにきちんと目をむけて、大きく大きく広げていきたいと思います。(笠井元)

2019年

8月

31日

2019.9.1 「無限に広がる小さな福音の種」(要約) マタイによる福音書13:31-35

1:  天の国

 13章では「天の国」が様々なものに譬えられていきます。イエス様は様々な言葉で「天の国」を語られました。イエス様は「天の国」がわかりにくくなるために、いろいろなものに譬えて語られたわけではないのです。そこには人間の言葉の限界性と、天の国の無限性があるのです。「天の国」は神様の愛の溢れる状態を意味します。神様の愛の形は無限に溢れ出るものであり、人間の言葉一言では言い表すことはできないのです。そのためイエス様は様々な譬えによって、「天の国」の一部分の特徴を語り、無限に広がる「天の国」神様の愛を教えられたのです。

 

2:  小さな種

 「からし種」と「パン種」の共通しているのは、最初は、とても小さいものですが、それが成長することによって、とても大きなもの、またはとても大きく膨らませたりするということです。今の世界は考えられないほどの発展を遂げています。しかしまた、これほどに発達した世界のなかで、神様の存在はとても小さく、もはや必要ないと感じてしまっているのではないでしょうか。神様によって与えられている愛、命、希望、平和、そのすべてがとても小さく思えているのではないでしょうか。

 

3:  汚れた種

 「パン種」は当時のユダヤにおいては、聖なる物というよりは、むしろ汚れたものとして考えられていました。私たちは何を汚れたものとしているでしょうか。私たちはどのような価値観で、「聖なるもの」と「汚れたもの」を見極めているのでしょうか。神様は私たち人間が、間違った価値観で「汚れている」とするもの、「必要ない」とするもののうちにも、「天の国」があると教えてくださっているのです。

 

4:  イエス・キリストという福音の種

 イエス様は「からし種」のように小さく、また「パン種」のように汚れたものとされるところに「天の国はある」と教えられているのです。神様は「天の国」の種を蒔いてくださっているのです。それはイエス・キリストという福音の種です。人間は、神の子イエス・キリストを、この世の一番小さな者、汚れた者、罪ある者として十字架につけていったのです。わたしたち人間にとっては「小さく」「汚れた」ものとした、その中に神様の愛が無限に広がり始めたのです。私たちは、イエス・キリストによって与えられた福音の種、神様の愛をいただきましょう。(笠井元)

 

 

2019年

8月

29日

2019.8.28 「教会内部のトラブルと任命された7人」 使徒言行録6:1-7

1:  一つとされてきたこれまで

 これまでイエス様の弟子たちは心を一つにしていました。新たな12使徒のひとりマティアを選ぶ時も、ペンテコステの時も一同は一つになっていました。そのあとペトロの説教の後3000人が仲間に加わったのですが、3000人、5000人と加わった後も使徒たちを中心に一つとされていきました。財産を分け合い、共に心を一つにし、共にパンを裂き、一緒に食事をし、賛美する者とされていったのです。

 

2:  教会内部におけるトラブル 

 これまで一つとされてきた教会ですが、人数が増える中でトラブルが生じたのです。その苦情は、「ギリシア語を話すユダヤ人が、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていた」ということでした。

 「ギリシア語を話すユダヤ人」というのは、離散地、パレスチナ地方以外で生まれ、育った人たち「ヘレニスト」のことです。代表者としては「ステファノ」「パウロ」です。ヘブライ語を話すユダヤ人とは「ヘブライスト」と呼ばれ、パレスチナ地方で生まれ、育った人たちで、イエス様も含め、12弟子などです

 

3:  仕事を分担すること 

 ここでは仕事を分担することの大切さを教えています。これまですべてが使徒たちを中心に行われていました。ここでは使徒たちが、自分たちの仕事の多さ、限界を感じて、新しく7人の者を選びだし、仕事を任せるのです。7人は「“霊”と知恵に満ちた者で、評判の良い人」で、自分たちが信頼して任せることができる人たちでした。使徒たちは、「食事の世話をすること」をとても大切な仕事の一つとして、信頼できる信仰の兄弟を選び出し、任せていくのです。

 

4:  指導者が選び出される

 ここで教会の新しい指導者が選び出されていきます。しかも、その理由は「やもめが軽んじられている」という小さく貧しい者に対して、正しく対応するためです。「軽んじられていたやもめ」に大切に対応するための出来事でした。そのような意味から、仕事を分担することの大切さを教えられます。ここでは小さな者が軽んじられないための、新しい指導者の選出がなされ、神の言葉はますます広まったのでした。(笠井元)